† Déjà-vu †
深森 薫
少女達は、宇宙にいた。
『月へ行きましょう』
そう言いだしたのはルナだった。
『貴女達の前世と「幻の銀水晶」、ダーク・キングダムの女王クイン・ベリルとの因縁------全ての秘密を知るために』
そう言いながら、内心は誰もが半信半疑だった。いくら特別な力を持つとはいえ、中学生五人と猫二匹である。
しかし現にいま、少女達はそこにいた。
「すごい・・・これが、地球・・・」
「嘘みたいだな・・・あれが、一瞬前までいた星か・・・?」
正面に、地球。
果てしなく深い闇の中に、ぽつんと浮かぶ蒼い星。
背後に白く、どこか寒々と、輝く月。
それより他は、宇宙と呼ばれる最果ての海が広がるばかり。
「月・・・本当にクレーターだらけだわ。水星に、似てる」
何気なく独り言のように呟いて、亜美ははっとした。普通の人間の感覚ならば、水星の方が月に似ているのだと思うはずなのに。
------蘇りつつある、前世の記憶。
頭の中のそれを追い出そうとするかのように、亜美は首を横に振った。そうしなければ、自分が自分でなくなりそうな------自分の中に潜むもう一人の自分に、自分が乗っ取られてしまいそうな。
そんな気が、した。
「ルナ、何処に降りるの」
「『晴れの海』------王国があった場所へ」
月から来たという黒猫は、抑揚のない声で答える。少女達は導かれるまま宇宙空間を滑るように移動し、月面へと降り立った。
「これが・・・」
「・・・月・・・」
口々に、心許なく、呟く。人はあまりに圧倒的な現実を前にすると、一切の感情を失うのだろう。
人工の照明のような無機質な光に浮かび上がる、石と砂だけの荒涼とした大地。満ち満ちるような光も渡る風も、動くものも、音を立てるものすら無い死の世界。頭上には吸い込まれそうに深い暗黒が広がるばかり。
そして。
平坦な大地の端に転がる、青白い、崩れた廃墟。
「あれは・・・?」
「そう------あれが」
月の王国、シルバー・ミレニアムの遺跡。
しばしの沈黙の後、少女達は誰からともなく歩き出した。
近付くにつれ、廃墟は次第にその生々しい姿を現す。
「柱・・・宮殿ね」
「ええ」
亜美の問いに答えて、先を歩いていたルナが振り向く。過去の記憶を残したまま、気の遠くなるような歳月を経て目覚めた月の猫。彼女の目は、何を映すのか。変わり果てた昔里を、どんな思いで見つめているのか。
「ムーン・キャッスル。プリンセス・セレニティとその母君、クィーン・セレニティの居城があった場所よ」
「・・・・・・・・・」
うさぎは複雑な表情で、微かに震える自分の身体を抱く。
まことが、そっと落ち着かせるようにその肩に手を添えた。
そうしている間にも、黒猫はどんどん歩いてゆく。崩れかけた階段を昇ると、一面に崩れ積もった瓦礫の間に規則正しく敷き詰められた石畳の名残が所々見て取れた。
ルナがふと足を止め、黒ビロードのような闇が何処までも続くばかりの天を仰ぐ。
「・・・ここがエントランス・ホール。吹き抜けになっていたの」
倣って天を仰ぐ少女達。彼女達の脳裏にも、朧気ながら在りし日のその姿が蘇る。自分の顔が映りそうなほどに磨き上げられた、石のフロア。創世神話の天井画に彩られた円い天井、豪奢なシャンデリア。
「こっちよ」
ルナは再び歩き始めた。彼女の踏み越えた瓦礫の山は、かつて緩やかな螺旋を描いて二階へと続く階段があった場所である。少女達は言葉もなく後に従った。
暫く歩くと瓦礫が途切れ、剥き出しの地表が現れる。
「このあたりが中庭。一年中花が咲いていたわ」
ルナの言葉に、亜美は息を呑んだ。
------憶えている。
かつては緑の木々と花々に彩られていた庭園。丁寧に刈り込まれた灌木、色とりどりの薔薇の花園。
そして、その手入れをしているジュピター。
鋏を片手にかがみ込む彼女。ふとこちらに気付いて顔を上げ、目が合うと満面の笑みを浮かべ------
亜美は思わず隣を歩くまことの顔を見上げた。彼女は亜美の投げる視線には気付かず、いつもより少し険しい面もちで黙々と歩いている。
(あなたは、憶えてないの?)
問うてみたかったが、今がそんな時ではないことも承知している。そうしている間にも、一行は遺跡の最奥を目指してひたすら歩いた。
「そして、ここから先は女王のみが入ることのできた聖域よ。私も入ったことは無いけれど、このあたりが『祈りの間』で------」
瓦礫に埋もれた、広大な石畳のフロア。
「------あれが『祈りの塔』、クリスタル・タワーの跡よ」
ルナは半壊したオベリスクのような構造物を示した。
「・・・あれは?」
うさぎがタワーの根元を指さした。近付くにつれ、それははっきりとした形をとる。円盤状の岩の台座に、突き刺さった一振りの剣。
「マーズ、ジュピター、マーキュリー、ヴィーナス。これを、引き抜いて」
立ち止まったルナは振り向いて、四人の顔を順番に見渡した。
「そーいえば、こんなおとぎ話、あったわよね」
まず美奈子が手を掛けた。剣は刀身から柄、鍔の細かな装飾に至るまで、全てが石でできている。
「岩に刺さってるのが伝説の聖剣で、引き抜けた人が本物の勇者だっていうやつっ・・・って、全っ然駄目じゃない!」
「ディズニーだろ、それ。どれ、貸してみな」
続いてまことが、自信満々に柄を握り締める。
「元々はアーサー王伝説よ」
レイの冷ややかな声を聞き流し、まことは呼吸を整え、気合いとともに力一杯引いた。
「くふぅっ・・・駄目だぁ。本当に抜けんの? これ」
「大丈夫。 力任せじゃなくて、四人が心を合わせて、強く念じて------貴女達なら、できる!」
ルナのいつになく強い口調に気圧され、四人は石の剣を囲んでその柄に両手をしっかりと重ねた。そして眼を閉じ、意識をその手に集める。。
と、円形の台座が光を発し。
剣は、するすると自ら浮き上がるようにその刀身を現した。
「・・・抜けた・・・」
その意外な重さに、美奈子がよろめく。
剣の抜けた台座は、一層強い光を放ち。
その光はやがて、人の形を取りはじめた。見慣れぬ衣装を身に纏ったその女性は、大人びた雰囲気と白銀色の髪を除けば、顔立ちも髪型もうさぎによく似ていた。
『・・・皆、よくここまで来ましたね・・・私は、月王国の女王、クイーン・セレニティ』
そして流れてくるのは、少しエコーのかかった、優しい大人の女性の声。
「クイーン------あたしの、前世の、お母様?」
うさぎは幻影の前に跪き、声を震わせた。
『この剣は、月王国に伝わる聖剣。これが抜かれたということは、ヴィーナス、マーズ、マーキュリー、ジュピター、四守護神が揃った、ということですね・・・そして、プリンセス・セレニティ・・・私の可愛い娘も』
言って、クイーン・セレニティの幻影は慈愛に満ちた微笑を浮かべた。その姿に、うさぎは胸の前で合わせた手を強く握り締める。
『私の肉体はすでに滅び、この世にはありませんが、ムーン・キャッスルのエタニティ・メイン・システムにより、こうして私の遺志を残すことができました。憶えていますか?このムーン・キャッスルが美しかった頃のことを------』
そして女王の幻は、噛みしめるように昔語りを始めた。
* * *
ホログラムの女王が姿を消し、辺りに再び静寂が戻った。
うさぎは石畳の上にへたり込み、女王の幻が消えた虚空を呆然と見つめている。四人の守護神も、誰一人口を開くことなく、ただただその場に立ち尽くしていた。
「ルナ」
最初に沈黙を破ったのは亜美だった。
「コンピュータールームを、調べてみようと思うの」
皆の視線が一斉に彼女へと集まる。
「さっきクイーンは、『キャッスルのシステムを使って遺志を残した』と言っていたわ。それを再生することができたということは、そのシステムが今も健在ということね。完全に、とはいかなくても、少なくとも、部分的には生きてる筈だわ」
そう言って亜美は、石の台座を見た。一体どのような仕組みであの映像と音声を再生したのか。何にしても、月王国の技術力は相当に高度なものだったに違いない。
「それを利用できれば、かなり心強いと思うの」
「そうね。じゃあ、皆で一緒に------」
「私も」
ルナの言葉を遮るように、レイが声をあげた。
「見てみたい場所があるわ」
「レイちゃんも? なら------」
「悪いけど」
今度はぴしゃりと、ルナの言葉を遮るレイ。
「一人にしてくれないかしら。------何か、思い出しそうなの」
彼女はそう言って、一瞬ちらり、と亜美の方を見た。
「そう。------なら、今からは全員、別行動にしましょう。危険なことはないとは思うけど、何かあったら通信機で連絡して。あ、うさぎちゃんは私と一緒に行きましょ」
ルナの指示で、五人は別々の場所へと散っていった。
* * *
遺跡の一角で瓦礫を掻き分けると、隠れていた地下への階段が姿を現した。
辺り一面瓦礫の山で、目印になるようなものなど何もなかったが、亜美は迷うことなくこの場所を目指し、地下への入り口を掘り当てた。はっきりと憶えていたわけではない。ただ、なんとなくこの場所のような気がした。
(これも、前世の記憶なのかしら)
どこか他人事のように感じながら、亜美は月の地下施設へと足を踏み入れた。細い階段は途中何度か折り返しながら、地下深くへと潜ってゆく。ゴーグルの暗視機能がなければ、何も見えない完全な闇の中。全く未知の世界の筈なのに、不思議と恐怖は無かった。
階段はどこまでも続いてるが、亜美は途中で足を止めた。地球の建物の感覚でいえば、地下五、六階くらいのところだろうか。両側は、壁。手すりも、窓も、何もない。
亜美は一呼吸置くと、右手の壁面に向き直った。そこは、扉はもちろんのこと、継ぎ目すらない一枚壁だった。
彼女がその壁に掌を当て、目を閉じて精神を集中すると。
丁度扉の大きさをかたどるように光の線が浮かび上がり、その部分がゆっくりと足下の床に沈んでいった。
守護神の『惑星の守護力』に反応する、隠し扉である。
はっきりと憶えていたわけではない。ただ、何となく、ここに何かがあるような気がして、何となく、そうすれば道が開けるような気がしただけなのだ。
扉の向こうには、一本の通路が横たわっていた。亜美は更に奥へと歩を進める。
エレベーターと思しき扉の前を過ぎ、
「・・・ここね・・・」
一枚の扉の前で、彼女は立ち止まった。
扉の横の壁面には、開閉を制御するものと思われる装置が埋め込まれている。亜美は先刻、隠し扉を開けた時にそうしたように、掌をかざして意識を集中した。
小さな電子音がして、扉が開く。
幾千年の時を経ての主の帰還。
ずらりと並ぶ、椅子とディスプレイ。その中で、他よりも一回り大きな椅子と、ひときわ大きなディスプレイに、亜美は吸い寄せられるように近づいた。一点の曇りもない画面、塵一つない床。パレスの地上部分が無惨な瓦礫の山だったのに対して、地下のこの部屋は、崩れるどころかひび一つ入っていない。密閉されたまま、月王国の終焉以来一度も開かれたことのなかった室内は、気の遠くなるような年月を経ているとは思えないほど清浄だった。
亜美はディスプレイの前に立ち、手元に目を落とした。パネルの上に埋め込まれたキーボードにもボタンにも、文字らしきものは刻まれていない。傷みは殆どなかったが、パネルの端は少し擦れているし、幾つかのキーには使い込まれて僅かに色が変わった箇所がある。遠い昔。自分ではないもう一人の自分が、確かに、此処にいたという証だ。
頭では解っていたが、いざ目の当たりにすると、酷くグロテスクな気がした。
手元に落とした視線を再びディスプレイに戻そうとした時、パネルの隅に置かれたものが亜美の目に留まった。
ガラスの小さな容器の中に、小石のようなものが詰まっている。まるで今掃除したばかりのような室内にあって、その周りにだけ、茶色い塵のようなものが落ちていた。
「これは------」
亜美は鉢を手に取った。
記憶が、蘇る。
人気のない、コンピュータールーム。一日の仕事を終えた端末機械の大部分は電源を落とされ、データ解析に携わるアシスタント達もすでに暇を出されていた。その中でマーキュリーは一人、メイン・コンピューターの画面を眺めている。次々に湧いて出てくる意味不明の記号群を、ゴーグルを通して解読する。そんな風にわざわざ煩雑な手間を取るのは、ひとえにその情報が機密中の機密であるが故のことだ。
やがて、その文字の羅列が途切れ。
マーキュリーは深い溜息をついて椅子の背に深くもたれると、黒い画面上で単調な点滅を繰り返すカーソルをじっと見つめた。
月王国の情報部には、地球の進化と文明の発展に関するものをはじめ、太陽系のありとあらゆる情報が寄せられる。部署を統括する彼女はその全てに目を通さなければならない。当然、その量は相当なものである。
だが、彼女の溜息の理由は疲労だけではなかった。
太陽系規模で観測される異常現象。
地球を襲う天変地異、民の間につのる不安と不満。
地球国に台頭する反月王国派。派閥の対立、どす黒い策動。
月と地球の関係悪化。
そして、時期を同じくして急激に増えた、妖魔の出現件数。
その機に乗じて蠢く、不気味な存在。
最初の兆候から数週間足らず。驚異的な速さで悪化の一途を辿る、あらゆる事象、あらゆる数値。
それらが収束し、導き出される答えは------。
マーキュリーはゴーグルを外すと、少し熱を持った両目を瞼の上から掌で押さえ、また一つ、溜息をついた。
無論、この状況を女王が承知していないわけではない。最初のデータが得られた時から、女王には全てを報告してきた。事の重大さは十分に伝わっているはずであるが、女王の答えは、いつも決まっていた。
ご苦労でしたという労いの言葉と、引き続き監視を続けよという指示。そして、この事はくれぐれも極秘に、という念押し。心配は無用ということなのか。それとも。
------もはや為す術はない、ということか------
BEEP-BEEP
不意に鳴り出す警告音が、暗い思考の連鎖を断ち切った。誰かがコンピューター・ルームに入ろうとしたようだ。
今頃アシスタントが戻ってくることは無いはずで。
それ以外にここを訪ねて来そうな人間は、一人だけ。
マーキュリーは極秘ファイルを閉じると、コンピューター・ルームのセキュリティを解除した。
ドアはすぐに開いて。
「ん?」
少し驚いたような表情をしたジュピターが、
「・・・ああ。なんだ、居ないのかと思ったよ」
すぐに満面の笑みを浮かべた。マーキュリーも腰掛けた椅子をくるりと回し、柔らかな微笑みでそれに応える。ジュピターは彼女の元へ歩み寄ると、軽く肩に手を添え髪に口づけた。
「まだ、終わんないの?」
だだっ子が甘えるように、問う。
「ん。今丁度、終わろうかと思ってたところよ」
返事を聞いて、よかった、とまた笑うジュピター。その左手が大事そうに持っている小さな植木鉢に、ふとマーキュリーの目が留まった。
「・・・どうしたの? その鉢」
「ん? ああ、これ?」
ジュピターは鉢をコンソール・パネルの隅に置いた。茶色い小石の詰まったガラスの鉢から、中央に白い筋の入った緑色の細い葉が、勢いよく伸びている。
「クロロフィタム、っていうんだ。子株が沢山付いたから、植え付けてみたんだけど、丈夫だし、世話が簡単だから、この部屋にどうかな、と思って」
「・・・いいの? 貰って」
「もちろん。そのために持ってきたんだから」
ありがとう、と小声で言ってはにかんだ笑顔を見せ、マーキュリーは、鉢をそっと手元に引き寄せた。
「葉っぱだけの鉢だけどね。花は、咲かないことはないけど、小さくて地味だし」
「花粉が落ちると機械に良くないし、その方がいいわ」
「・・・そ、っか」
「------それに」
ジュピターの苦笑いに気付いてか気付かないでか、マーキュリーはゆっくりと言葉を継いだ。
「私は、花よりも、葉の方が好きよ。・・・人は、華やかな花にばかり目を奪われるけど、花は根や葉があって初めて咲くものだから。私は、葉の緑の方が好きだわ。シンプルで、逞しくて、命の輝きに溢れていて」
別に花が嫌いなわけではないけれど、と小さく笑うマーキュリーにつられるように、ジュピターも笑った。
「でも、大丈夫かしら。こんな、窓もない部屋で」
「これくらい明るければ大丈夫だよ。年中無休で灯りがついてるし。・・・たまには、灯りを落とした方がいいと思うけど」
そう言って、咎めるような視線を投げるジュピターに、
「・・・今、片付けるわ」
マーキュリーは少し困ったようにそう言って、手にした鉢をパネルの奥側にそっと置いた。そして軽やかにキーボードを叩き、コンピュータの電源を落とす。
「お待たせ。行きましょう」
パネルの端に手を突いて、マーキュリーは立ち上がった。
「------本当に、あったこと、なのね・・・何もかも」
植わっていた植物はとうの昔に朽ち、土代わりの小石は乾ききってしまった、ガラスの植木鉢。その在りし日の姿を、亜美は確かに覚えていた。
「・・・結局、花は、咲かなかったわね」
ぽつりと呟く亜美。
鉢は、何も答えなかった。
* * *
薄闇の中、コンピューターのディスプレイだけが光を放っている。ゲームセンター・クラウンの地下司令室に、一心不乱にキーボードを叩く音だけが響く。
ぱちっ
不意に別の音がして、室内が明るくなった。
キーボードの音が止む。
「暗いところでテレビ見てると、目が悪くなるよ」
振り返ると、入り口にまことが立っていた。
亜美の心臓が、どくんと跳ねる。
「って、言われなかった? 子どもの頃、お母さんとかに」
「・・・そういえば、そんな気もするわね」
肩をすくめながら、亜美は殊更に淡々と返してみせた。
「で。何してんの? せっかくの休日返上で、さ」
まことは悪戯ぽくそう言って、亜美のもとへと近づいて来る。制服姿とは違う、細いジーンズが長身によく似合っていた。
「この間、月から持ち帰ったものを、いろいろ分析してるのだけど。なかなか思うように進まなくて」
「ふぅん。どれどれ」
亜美の座っている椅子の背に肘をかけ、長身を少し折り曲げるようにしてディスプレイを覗き込むまこと。間近で感じられるその気配に、亜美の鼓動が速くなる。彼女の腕が触れる肩先が、ひどく熱い気がした。
「うわ。何これ」
画面を埋め尽くす数字とアルファベットの羅列に、まことが心底うんざりしたような声を上げた。
「月の神殿で拾ってきた瓦礫の、成分分析よ」
亜美はごく真剣に答えて、ガラスのシャーレに入れられたサンプルの一つを、まことに見えるよう手に取った。
「拾った場所によっていくらか成分に差はあるけれど、共通していえるのは、正体不明の固い物質であることよ。地球上の、少なくとも既知の物質には、これと同じ物はおろか、似たものすら存在しないわ。しかも、かなり毒性の強い成分で」
「毒!? って、ちょっ、っ、」
「大丈夫よ。こうして固まって、石になっているぶんには、手で触ったくらいでは問題ないから」
動揺するまことを諭すように、亜美。
「・・・そ、うなの?」
まことは少しほっとしたように、申し訳なさそうに、短くそう言った。
「ええ。例の『四守護神の聖剣』も、これと同じ物質でできているわ。・・・いえ、最初からこの物質で作られていたとは考えにくいから、固められている、とか、変えられた、と言った方が正しいかしら」
「ふぅん」
亜美の掌に置かれたサンプルを、まことは真剣な面持ちで見つめている。
「・・・亜美ちゃんの指ってさ、細くて綺麗だよね」
「っ!?」
全く不意を突かれて、亜美の声が裏返る。思わずまことの方を見上げると目が合って、耳がかぁっと熱くなるのが自分でも分かった。
まことは、悪戯がうまくいった子どものように笑っている。
「ちょっ、まこちゃん・・・!」
亜美はやっとのことでそれだけ言って、咎めるような視線を投げる。
「や、でも本当だよ?」
少しも悪びれないまことに、亜美は、
「・・・知らないっ」
赤くなった頬を隠すようにそっぽを向いた。
「ごめ。・・・・・・うん、いいから、続けて?」
やっぱり少しも悪びれたところのないまこと。
亜美は深呼吸を一つして、気を取り直した。
「・・・今のところ、分かっているのは、そこまで。なぜそんなことになったか、とか、それを元に戻す方法は、とか、具体的なことはまだ、何一つわからないまま」
「毒の石で固められた・・・敵にやられた、ってことか、な」
まことは再び真面目な顔になって、サンプルを見つめている。
「・・・そういう、まこちゃんは。どうして此処へ?」
サンプルを机上に戻しながら、亜美が問うた。
「ん。・・・何て言うか・・・暇だったから。誰かいるかな、と思って」
「・・・そう」
頷いて、ふと、亜美は自分が多少失望していることに気付いた。
----自分は、一体どんな答えを期待していたというのか?
「・・・ああ、でも、亜美ちゃんは居るような気がしたかな。何となく、だけど」
「え」
その言葉に、また不意を突かれたように、亜美の心臓が跳ねる。
「だから、さ。ほら、差し入れ」
動揺が少し、顔に出ていたのかもしれない。まことはへへ、と満足そうに笑って、手にした紙袋から大きなタッパーを取り出した。
蓋が開くと同時に、バターの香りがふわりと上がる。
「パウンドケーキ、作ったんだ。プレーンと、黒ごまと、アールグレイ。苦手じゃなきゃいいけど」
「ううん、大丈夫。・・・美味しそう。これ、全部、まこちゃんが?」
「よかった。ん、黒ごまは初挑戦だけど、割と上手くいったと思うよ。で、飲み物はミルクティー」
続いて水筒を取り出し、蓋に中身を注ぐ。湯気とともに紅茶の芳香が立ち上った。
「砂糖入ってないけど」
「あ、うん、大丈夫。ありがとう」
少し戸惑いながら、亜美はカップ代わりの水筒の蓋を受け取った。
一口すすると、芳醇な香りが広がる。喉に、胃に、じんわりと滲みる温かさに、自分が随分長いこと休憩を取っていなかったことに気付いた。
「・・・美味しい」
しみじみと呟くように言うと、まことはくすりと笑った。
「パウンドケーキもどうぞ。今なら皆いないから、独り占めのチャンスだよ?」
『独り占め』という言葉に、亜美の心がざわつく。
確かに、自分はいま、独り占めしている------
「ええ。じゃ、遠慮なく」
亜美はにっこり笑って、パウンドケーキに手を伸ばした。まずは、初挑戦という黒ごまから。
「・・・美味しい」
「ほんと? よかった」
まことは破顔して、自分も一切れ手に取り、頬張る。
「本当。今すぐにでも、お店が開けそうよ」
そう言って二切れ目に手を伸ばす亜美の横で、まことはもう一つ別の袋を机上に置いた。
「っと、それから、もう一つ差し入れ」
そう言って彼女が取り出したのは、小さなガラスの鉢。
茶色い小石の詰まったそこから、中央に白い筋の入った緑色の細い葉が、勢いよく伸びている。
------亜美は、思わず息を呑んだ。
「------そ・・・れ、は?」
必死で言葉を紡ぐ亜美。
その声は、震えていたかもしれない。
「オリヅルラン、っていうんだ。子株が沢山付いたから、植え付けてみたんだけど、丈夫だし、世話が簡単だから、この部屋にどうかな、って」
まことは気付かぬ風で、言葉を続けた。
「機械があるから、土は不味いかと思って、ハイドロカルチャーにしてみたよ」
照れ隠しのように頭を掻く、その仕草までもが、記憶の中のジュピターと重なる。
貴女は------憶えて、いるの?
------それとも、ただの、偶然?
「そ・・・う」
「あ。・・・もしかして、やっぱ、ダメ・・・だった?」
歯切れの悪い返答に、まことがおずおずと問う。
「・・・ううん」
亜美は鉢に目を落としたまま、小さく首を横に振った。
「緑は------好きよ。万一ひっくり返しても大丈夫な場所を選んで置けば、問題ないし」
よかった、と、まことはほっとしたように言った。
「観葉植物とか好きって、亜美ちゃん、いつか言ってたような気がしたから、さ」
その言葉に、亜美ははっとした。
違う。
私は-----------言ってない。
顔を上げると、机に手をついて、こちらを覗うように屈み込むまことと目が合って。
少し照れたように笑うその目は、ただただ優しくて。
我知らず、亜美の瞳からはらりと涙が零れた。
「え。あ、亜美ちゃん!?」
------結局、私達は、月の呪縛から逃れられないのだ。
「ど、どしたの?」
自分がこの人の一挙一動に揺れ動くのも、この人が自分のことを気に掛けてくれるのも。
------全ては、生まれる前から、決められていたことなのか。
「あ・・・何でも、ないの・・・・・・ごめんなさい」
亜美は俯いて、小さく首を横に振った。
「・・・・・・な、何かあたし、悪いこと、言った、か・・・な」
不安げに細る、声。
困ったように顰められる、眉。
「・・・本当に、何でも、ないの・・・本当に・・・気にしない、で」
亜美は少し焦ったように、手で涙を拭って、
「や、何でもない、って、言われても・・・・・・」
「本当・・・・・・気に、しないで」
まことの言葉を遮るようにそう言った。
「亜美ちゃん・・・」
暫し逡巡したまことは、おずおずと、亜美の右の肩に、自分の右手を置いた。
その一瞬、亜美の身体が僅かに強張る。
「・・・ごめん」
「・・・どうして。まこちゃんが、謝るの」
肩に触れるその手のぬくもりに、心奪われる。
「・・・・・・あたし、亜美ちゃんが何で泣いてるのか、さっぱり、わかんないんだ」
頭の上から、静かに降り注ぐ、声。
「だけど・・・よく、わからないけど。何となく、あたしのせいのような気がして」
胸に染み入るその声が、閉ざした心の扉を叩く。
そんな感覚に、亜美は確かに憶えがあった。
「・・・どうして・・・そう、思うの」
先刻から、『どうして』ばかり言っている気がする。
どうして、なんて。本当は、分かっている癖に。
「わからない。だけど、悪いのは、あたしのような気がする。わかりたいのに・・・わからなきゃ、いけない気がするのに、わからないんだ。だから・・・ごめん」
「・・・ううん」
「・・・ごめん」
応える代わりに、亜美は首を傾け、右の肩に置かれたその手に、頬を重ねた。
「・・・ごめん」
空いた方の手が、亜美の小さな頭をそっと撫でる。
本当は、自分ではない、もう一人の自分に向けられた、彼女の優しさ。
けれど、今だけは。
------今だけは、私のものに。
−−−Déjà-vu・終
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