The Dark Side of the Moon
深森 薫
――私達は、星に縛られている。
そして、その呪縛は年を追うごとに強くなってゆく。
午後九時の十番予備校。
受験生向けの最終講義がようやく終わり、学生達は玄関の自動ドアを抜けて足早に家路につく。ビルの前で待っていたまことは、学生達の群れの中から亜美の姿を目ざとく見つけ、小さく手を振った。
亜美は微笑みでそれに応え、真っ直ぐにまことの方へと歩み寄る。
「お待たせ」
「お疲れ」
簡潔に言葉を交わし合うと、二人はいつものように肩を並べて同じ方向へと歩き始めた。まことが、学生鞄とは別にテキスト類が詰め込まれたトートバッグを亜美の肩からひょいと取り上げる。
あ、と小さな声とともに見上げる亜美と、目があって。
「……カバン、邪魔なんだよね」
取り上げたバッグを亜美の側とは逆の肩に掛けながら、まこと。
「なんか、間に壁があるみたいでさ」
そう言って、亜美の手を取る。
「っ、まこちゃ――」
「嫌?」
狼狽えたように周囲へ視線を泳がせる亜美にはお構いなく、まことはきゅっとその手を握りしめた。
「そ、ういう訳じゃ……」
「よかった」
困惑する亜美の顔を見下ろして、へへっ、と笑う。
「そういう問題じゃなくて――」
「いいじゃん。別に、悪いことしてるわけじゃなし」
「それは。そう、だけど」
「だろ?」
まことは不敵に笑うと、繋いだ手をぐいと引き寄せ、亜美の指に軽く口づけた。
「! なっ、ちょっ! まこちゃん!」
「余計目立つよ? あんまり大声出すと」
「っ――」
そう言われて口を閉ざした亜美に、してやったり、という風の笑顔を向けるまこと。
「もう……」
少し呆れたように溜息をついて、亜美は空を見上げた。立ち並ぶビルに狭められた小さな夜空に輝くのは、満ちゆく月と、一際明るく輝く星――木星だ。
月王国の末裔として覚醒してから数年が経つうち、亜美は発見した。
自分たちが、星の動きに影響されていることに。
亜美は仲間達が時折「らしからぬ」言動をすることに、何か引っ掛かるものを感じていた。最初のうちは、気のせい、ただの偶然、そう思ったが、じきにその変化には規則性があることに気付いた。
今の自分たちと前世の自分たちは、似ている部分も少なくないが、やはり別人だ。そして、今の自分たちには「らしからぬ」振る舞いも、前世の性格に照らしてみれば実に似つかわしいものである。そして、それは各々の守護星が頭上にあるとき、最も強く顕れるのだ。加えて月が出ていれば、もっと強く。
例えば、今のまこと。
強引で剛胆、挑発的。スキンシップ過剰で、少し嗜虐的。
これらは皆、「ジュピター」にこそ似つかわしい形容詞である。普段のまことはもっと紳士的だ。
「……それはそうと。亜美ちゃん家の冷蔵庫、いま何がある?」
繋いだ手はそのままに、まことは普段と変わらぬ様子で、穏やかにそう尋ねた。
「そうね……卵が六個と、マヨネーズ、わさび、バター、マーガリン、スライスチーズ、フレンチドレッシング、それからシチューのルーが一寸だけ。冷凍庫にご飯と食パン、ベーコン、ミックスベジタブルが半袋……かしら」
亜美は記憶力を総動員して自宅のキッチンを思い浮かべる。
「他には?」
「あと、冷蔵庫の外に、インスタントのポタージュスープとパスタと、玉葱が何個か」
「ふーん……」
与えられた材料をもとに、まことが脳内キッチンに立つ。
「一寸スーパー寄っていい? ケチャップ……や、ケチャップだけならコンビニでも……んん、でもスーパーの方が安いよな」
「どっちでもいいけど。店に入ったら、解いてね?」
「ん?」
「こ・れ」
意図が理解できず首を傾げるまことに、亜美は苦笑しながら繋がれた手を小さく揺すった。
「えー。いいじゃん」
「駄目」
「見せつけちゃえば」
「駄目です」
「えー」
「えー、じゃなくて」
そんなやりとりをしながら、二人はケチャップを求めて歩いた。
賑やかな通りから少し奥まった、少し寂しい界隈に差し掛かったところで、まことがふと足を止めた。
「何? どうか――」
「なにか――聞こえた」
合わせて足を止めた亜美の言葉を遮って、まことは天を仰いで耳を澄ませる。
喘ぐような、短い悲鳴と、くぐもった低い声。
声の出所は、二人の斜め前方、五階建ての立体駐車場の上。
二人は顔を見合わせ、頷き合うと、その場所を目指して駈けだした。
非常階段を最上階まで駆け上がると、がらんどうの駐車場に、車が二、三台。
男が二人、立っている。
その奥で、時折聞こえる、女の短い悲鳴と、苛ついたような男の声。
何が起こっているのかは、すぐに察しがついた。
亜美の隣で、殺気が膨れあがる。
それが何を意味するのか、次に何が起こるのか、彼女にはすぐ理解できた。
「ま――」
亜美が引き止めるより先に、まことは男達の方に向かって歩き出していた。
刹那、その姿が光を纏い、雷神ジュピターが顕現する。
「――ジュピター」
マーキュリーが追い縋る。
「無茶しないで。相手は」
「……わかってる」
振り向きもせず、唸るような低い声で答えるジュピター。
硬質の靴音が、夜の駐車場に響く。
「ぁあ?」
立っていた男たちが振り向いた。
「何だぁ? 女か?」
くちゃくちゃとガムを噛む音に混じって聞こえた声は、若い。十代後半か、二十代前半といったところか。
ジュピターは、二人の男の間を、二人には目もくれず通り過ぎようとした。
「シカトかよ」
男の一人がそう言って、ジュピターの肩に手を伸ばす。
触れる寸前、ジュピターがその手首を掴み、
ごりっ
骨の砕ける鈍い音がした。
「ぐわぁぁぁっ! ひぃぃぃっっ!」
その場にへたり込んで、男は絶叫した。泣き叫ぶ姿はまるで子供のよう。
「てめぇ! 何しやがる!」
もう一人の男が挑みかかって来る。ジュピターはその腕を掴むと、幼い子供が人形を振り回すように、男の体をいとも簡単に振り回し、床に叩き付けた。
ぐっ、という短い呻き声がして、男は動かなくなる。
二人がかりで女性に取り付いていた男達が異変に気付き、顔を上げた。
「なっ、何だてめぇ」
ジュピターは答えることなく、男達を睨み据えた。
髪も着衣も乱れ、顔中を涙に濡らした女の姿を目にした瞬間、ジュピターは脳裏で何かが焼き切れるような感覚を覚えた。
「何しやが――!」
右手で一人の襟首を、左手でもう一人の胸倉を掴むと、その体をコンクリートの床に叩き付ける。
「地球人の雑兵が……」
ジュピターは唸るような怨嗟の声を絞り出しながら、地べたに転がって小さく呻きながら身を捩っている男達の首を掴んでその体を宙に吊り上げた。
「我が民を陵辱した報い、その身に受けるがいい」
「ジュピター! それ以上は駄目!」
その腕に、マーキュリーが取り縋った。
「止めるなマーキュリー! 我が民が受けた苦しみ、思い知らせてやる!」
「殺しては駄目! 思い出してジュピター! 今は私達も地球人なのよ! 私も、貴女も、それに、プリンセスも!」
プリンセス、の一語に、ジュピターは動きを止めた。
「貴女が地球人を殺めることを、プリンセスは決してお喜びにはならないわ。だから――」
「……分かった」
ちっ、と舌打ちして、ジュピターは傍に停められていた車に男達の体を叩き付けた。
ぼぐっ、と鈍い音がして、天井が窪み、フロントガラスが砕け散る。
「ジュピター!」
「……手加減はした。この程度で死にやしないさ」
マーキュリーは溜息を一つついて、呆然と座り込んだ女性のもとに歩み寄った。
「大丈夫ですか?」
女性が身に着けていたのは、彼女も知っている私立高校の制服だった。怯えた表情のまま、無言で頷く少女に、マーキュリーは荷物から取り出したカーディガンを羽織らせる。
と、車のエンジン音が駐車場を上ってくるのが聞こえた。
「誰か来るわ。派手にやり過ぎたわね……ジュピター」
マーキュリーが声を掛けると、まだ怒りを持て余しているジュピターの仏頂面が振り返る。
「見つかると色々厄介だわ。ここを離れましょう。この人をお願い」
ジュピターが少女を抱え上げるのを見届けて、マーキュリーは駈けだした。立体駐車場の鉄骨の隙間から、向かいのビルの屋上に向かって跳躍する。
少女を抱え、ジュピターもその後に続いた。
深夜。
まことは、ベランダの柵に凭れて空を見上げていた。
高層マンションの上層階にある水野家。南向きのベランダからは、空がよく見えた。月は西に傾き、ビル群のすぐ上で輝いている。
その月を、まことは先刻までの激情が嘘のように静かな表情で眺めていた。
「まこちゃん?」
浴室から戻った亜美は、まことの姿を探してベランダを覗いた。名を呼ばれて、まことは首だけで振り返るが、亜美が近づいてくるのを見ると、また空へと視線を戻した。
「湯冷めするわ」
「ん」
亜美はまことの傍に寄り添うように立つと、その横顔を見上げた。解かれた髪が緩やかに波を打ち、頬に影を落としている。
「何、見てたの」
「……ん。月を、ね」
亜美が問うと、まことは空を仰いだまま答えた。
星々の微かな光は街の灯りにかき消され、月ばかりが輝く夜空。
木星はもう、西の地平へと姿を隠している。
亜美はまことの隣に、寄り添うように立った。
「綺麗ね」
「……ん」
まことの答えは、少し歯切れが悪い。
沈黙が降りる。
亜美はまことの左腕にそっと触れた。
「ん?」
まことが首を巡らすと、亜美はまことのパジャマの袖を握りしめ、その肩に額を押し当てた。
「どしたの?」
まことの顔がふいと綻ぶ。
「…………」
「ん、よく聞こえない」
何? と問い返して、まことはそっと顔を近づけた。
「そんなに……月ばかり、見ないで」
顔は伏せたまま、消え入るような声で、亜美。
「え?」
まことは一瞬、彼女の言葉を解りかねたが、
「えっと……それって、『月じゃなくて、私のこと見て』ってこと?」
すぐに破顔して、少し揶揄うようにそう言った。
「……うん」
俯いたまま、亜美が頷く。
「え」
自分で言っておきながら、そう素直に頷かれると急に照れ臭くなり、まことは頬を赤くして口ごもった。
「えーと…………その、ほんとに?」
亜美は表情を隠すように肩に凭れたままで、何も答えない。
「…………」
暫し逡巡していたまことは、やがて、空いた右手を亜美の肩へと伸ばした。亜美のそれよりも一回り大きなまことの掌が、まことのそれよりも随分と華奢な肩を撫でる。亜美はパジャマの袖を握りしめていた手を放し、まことの背中へと滑らせた。
「――亜美ちゃん?」
亜美はまことの胸元に顔を埋め、答えの代わりに腕にぎゅっと力を込めた。
まことは、自由になった左腕を亜美の腰へと回すと、右手を肩から背中へと静かに滑らせ、亜美の洗い髪に頬を擦り寄せた。
強引に抱き寄せるのではなく、柔らかく包み込むような、抱擁。
こんな風にまことはいつも、硝子細工を扱うような丁寧さで亜美を扱う。
「じゃあ……顔、見せて。よく」
まことはそう言って、俯く亜美の髪を指先で掻き分け、その頬に触れた。
「ね?」
その手がするりと頬を包み、耳元から顎へのラインを指先が辿るのに促されるようにして、亜美はようやく顔を上げた。
目が合えば、互いの瞳に吸い寄せられるように、顔が近づき。
「――まこちゃん」
あとほんの僅かで触れようか、というとき。
「ん?」
「独りで、抱えないで」
吐息のかかる距離で、亜美がそう言って。
まことの動きが止まった。
「……何の、こと?」
精一杯とぼけて見せても、ぎこちない言葉と眉間の皺が内心の動揺を如実に表す。
「月を見ながら、考えてたこと」
少し強張ったその頬に、亜美の掌がそっと触れた。
「どうしても、とは、言わないけど」
「……敵わないな。亜美ちゃんには……ほんとに」
まことは小さく溜息をついて、ふいと表情を和らげると、亜美の体を包んでいた腕を解いた。
出会った頃よりも少し高いところにある、まことの顔。少し困ったような、けれどどこか嬉しそうな、それでいて今にも泣き出しそうな、そんな表情で亜美を見つめる。それはまことが時折、亜美だけに見せる表情。
「亜美ちゃんは――」
少し逡巡して、まことが口を開く。
「――あたしのこと、怖いと思ったこと、ない?」
予想外の問いに、亜美は一瞬きょとんとした顔をしたが、
「……ないわ」
ふいと微笑んで、そう答えた。
俯いた横顔を見上げ、どうして? と問う。
「あたしは……怖いよ」
のろのろと、まことが答える。
「自分で、自分が、怖いんだ。自分が一体何をしでかすか、自分でもわからなくて」
まことは、ベランダの柵に肘を載せ、遠い目で月を見遣った。
「昔から、そうだった。転校してきたばっかりの頃、噂になってたろ? あたしが転校した理由。ヤンキーと喧嘩して、相手をボコボコにしたから、前の学校に居られなくなった、ってやつ。……あれ、半分は本当なんだ。転校の理由はそれじゃないけど、相手をボコボコにしたのは本当」
亜美は黙って、ただまことの言葉に耳を傾けている。
「同じ学校の子が絡まれて、嫌がってるのを見て、カッとなって。そういうの見ると、頭に血が上って、どうしようもなくなるんだ」
(知ってるわ)
女が男に寄ってたかって嬲られる様は、地球国の軍勢に月の民が蹂躙される様にそのまま重なる。それは、月王国の「守護者の中の守護者」と謳われ、誰よりも国を愛し民を愛したジュピターにとっての逆鱗だ。亜美は、そのことを痛いほど心得ている。
「昔はそれでも、少し位は抑えが効いてたけど、近頃は、そんな風になると、抑えるどころか、記憶も曖昧で。まるで、自分が、自分じゃないみたいな。頭の中が、自分じゃない他の誰かに乗っ取られるような……そんな感じがするんだ」
まことは、自分の掌に視線を落とした。
「今日だって。あの娘が襲われてるのを――そこまでは憶えてるんだ――それを見た途端、かあっとなって、それからは、頭の中に霧がかかったみたいになって。あたし自身は、離れたところにいて、もう一人のあたしが暴れてるのを見てる、そんな感じで」
確かめるように、ゆっくりと拳を握り締め、そして、ゆっくりと広げ。
「まこちゃん……」
「わかってる」
亜美の言葉を遮って、まことが続ける。
「暴れてるのは、ジュピターなんだよね。月の王国はもうとっくの昔に無くなってるのに、怨み辛みを抱えて、成仏できないままあたしの中で眠ってて、何かあると、怒りを持て余してそこら中お構いなしにぶつけまくるんだ」
我ながら困った奴だよね、とまことは肩を竦めた。
「……そんな言い方」
しないで、と、少し眉を顰めて、亜美。
「ジュピターも、あたしの一部には違いないけど。こんなことが続いたら、いつか、あたしはジュピターに乗っ取られて、もとの自分に戻れなくなりそうで、いつか、取り返しのつかないことをしそうで――怖いよ」
「まこちゃん」
まことが視線を落としたその先で、手が微かに震えている。
「大丈夫」
亜美は、震えるその手を自分の掌でそっと包み込んだ。
「まこちゃんは、まこちゃんよ」
「……そうかな」
心許ない目をして、力なく苦笑するまこと。
「今日だって、ちゃんと戻ってきてくれたじゃない」
「それは。……まあ、そう、だけど」
まことは、見上げる亜美からふいと目を逸らし、
「次は、どうかな」
西の空に傾く月を見た。沈みゆく月に特有の錆びたような赤い色は、かつて月の民が流した血を思わせる。
「――まこちゃん」
亜美は、握り締めていたまことの掌を、そっと自分の頬に宛がった。
「私は、まこちゃんが好きよ。――だから、誰にも渡さない。たとえジュピターが相手でも、絶対に譲れない。譲らないわ」
静かな口調で、けれど高らかに宣言するように告げる亜美。まことは、月へと投げていた視線を亜美へと戻した。
意志の輝きを放つ瞳が、まことを捕らえる。
「あたしも。亜美ちゃんをジュピターに取られるのは、ご免だ」
そう言って、まことは憑きものが落ちたように破顔した。
つられて亜美も微笑する。
「……中、入ろうか」
「そうね」
まことは亜美の頬から手を離すと、慣れた風でその肩を抱いた。
「あー、さすがに一寸冷えた、かな」
肩をそびやかしてそう言うまことを、少し心配そうに亜美が見上げる。
「大丈夫?」
「ん、大丈夫。亜美ちゃんがあっためてくれたら」
大丈夫、と悪戯ぽい笑みを浮かべて、まことが答える。
「っ――」
「?……え。
やだな、亜美ちゃん。今、なに想像したの?」
言葉に詰まった亜美の肩を殊更に引き寄せて、まことはその顔を覗き込んだ。
「知らないっ」
いつもと同じ調子で軽口を言い合いながら、二人は暖かな光の中へと戻っていった。
−−−The Dark Side of the Moon・終 ――
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