† 遠くから呼ぶ声 †

高野 初音

 

  初めてプリンセスの手を取った時、何かが見えた気がした。それは一瞬でかき失せ、確かめることもできなかった。残ったのは、プリンセスと触れ合った部分の熱さ。覚えているのはプリンセスの悲しげな瞳。
『はやく、思い出して。ほんとうのあなたたちを。』
それはすぐに消えて、りりしい強さがプリンセスに戻った。けれど、その一瞬はレイの脳裏に鮮明に焼きついて、はなれなかった。
 そしてレイは夢に侵され始めた。


 子どもの頃から、自分が他の人たちより勘が鋭いことは知っていた。それは夢の形であらわれることもしばしばだったが、この頃は特に酷くなっている。気を抜くと白日夢とさえなって迫ってくる。何かいやなもの、あるいはひどく懐かしいものを夢に見て目を覚ますのだが、起きた時には内容はすっかり忘れている。夢を見る頻度は、次第に高くなっていった。それとともに少しずつ何かがおかしくなってゆく。時に耐えられなくなるほどに。叫びだしたいような。泣きたいような。抱きしめたいような。衝動にかられて身動きできなくなる。その一方で強いおそれが、レイをとらえようとしていた。
 それが、一人の人間に強く関わっていることにレイはじき気づいた。長く美しい金の髪が揺れ、プリンセスと彼女を呼ぶ時、何かを感じる。漠然とした、形容できないその感覚は夢を見た時と同じものだ。その正体がわからぬために、レイは美奈子を警戒した。彼女は自分たちと同じ存在だと確かに感じているのに。その矛盾にふと笑んでも、美奈子に対する警戒をレイはやめられなかった。一緒に行動しない。なるべく直接言葉をかわさない。美奈子との間にまことや亜美やうさぎをはさむ位置に立つ。それだけの努力をしてもなお、逃れることはできなかった。うさぎたちに、何より美奈子にそれを気づかれぬように気を張るのは、当然疲れる。疲れとともに違和感が大きくなってゆくような気がして、無理に作った笑顔の下、レイの焦燥は深くなっていった。
 新しく加わった仲間、ましてそれがようやく現れたプリンセスとあって、はしゃぐうさぎたちは、レイのそんな内面に気づかなかった。当の美奈子をのぞいては。レイの態度もまだそれほどあからさまではなかったこともあった。美奈子でさえ当初は気のせいかと思っていた。けれど、注意深くレイを見ていると明らかに自分を避けている。美奈子は、それを悲しい思いで見つめた。理由に大体の見当をつけて、仕方がないこととも思いながら、なお割り切れない複雑な思いが残る。早く思い出して欲しいという願いに、嘘はなかった。皆がほとんど何も知らぬままのかりそめの幸せを、大切に思う心にも偽りはなかったけれど。それがすぐにも破られるものだと知っている美奈子は、揺れる瞳でうさぎを、そしてレイを見つめた。ただ一つ、深く刻み込まれた決意を、もう一度取り出して確かめる。皆に気づかれぬよう女神の顔で微笑んで、美奈子はうさぎに飛びついた。


 昼休み、食堂に向かおうとしたレイの前に立った者がいた。さらりと長い髪が揺れる。
「レーイちゃん。」
嬉しげにやたらにこにこしているその少女と知り合ったのはつい最近のこと。
「美奈子ちゃん?」
問い掛けるのが一瞬遅れたのは、プリンセスという言葉を飲み込んだためだった。TA女学院の制服を着た美奈子がぺろりと舌を出した。
「えへへ、来ちゃったの。」
「どうしたの。それにその制服。」
「ここがあこがれのTA女学院なのね。うーん、さすがにお嬢様学校は違うわ。」
ふざけた声音の美奈子をレイが無言で見つめる。頭を一つかいた美奈子は肩を竦めた。
「ほら、あたし変身コンパクト持ってるしね。いっぺん来たかったから。レイちゃんだってほら、『来れば』って言ったじゃない。」
しばらく無言で美奈子を見つめていたレイが軽く溜め息をついた。一人TA女学院に通うレイをうらやんで騒ぐ美奈子に、『そんなに見てみたければ来ればいい』とつい言ってしまった自分の迂闊さをレイは悔やんだ。そのレイを上目遣いに美奈子が見やる。
「レイちゃん、怒ってる?」
「別に怒ってはいないけど、今はしっかりしなくちゃいけない時だと言ったのは、プリンセス、」
その単語が出た途端、美奈子の人差し指がレイの唇に押し当てられた。真剣な瞳にどきりとする。だが、次の瞬間ウインク一つ飛ばして、美奈子は笑った。
「大丈夫。油断とリラックスとは違うでしょ。ずっと気を張ってたって早く老けるだけよ。それよりレイちゃん、あたしTA女学院、いっぱい見て回りたいの。」
指を組み瞳を輝かせてねだる美奈子に、もう一度軽く溜め息をついたレイは、それでも先に立って歩き出した。半歩遅れた美奈子の瞳を影がよぎったことに、だからレイは気づかなかった。
 構内をひととおり案内するレイの横で、美奈子ははしゃいでいた。れいにはもう珍しくもない設備や装飾の一つ一つに美奈子は感嘆の声を上げている。レイは、ちらりと横目で美奈子を盗み見た。プリンセスを前にして湧き上がる不愉快さを伴った違和感を、今は感じない。そのことにレイは内心でほっと息をついていた。
 ときおり行き交うシスターたちにも優雅に会釈する美奈子は、学院の雰囲気に見事に溶け込んでいて、部外者であることを感じさせなかった。普段一人でいるレイが誰かを伴っているのに気安さを感じたのか、同級生たちが話しかけてくる。美奈子を他のクラスの誰かだと考えているらしい。名乗ったときも別段不審に思う様子もなかった。美奈子は見事に彼女らをさばいた。一緒に食事を、という申し出を用があるからとかわす。興味なさそうなレイに気を遣ったのか、彼女らもそれ以上強引に誘おうとはしなかった。
 カフェテリア方式の食堂にも優雅な空気が流れていた。大きく取られた窓から差し込む光で明るい食堂には、ふんだんに花と緑が飾られている。十分な余裕を持って配置されたテーブルには白いクロスがかけられ、テーブルとセットの背もたれの高い椅子が置かれている。さんざめくような微笑みの波が所々で生まれては静かにひいてゆく。微かに流れている室内音楽の題名は、美奈子は知らない。窓際、校庭の見える席を取った。食事の内容にも何が面白いのか騒ぐ美奈子を置いて、レイはさっさと食べ始めた。
「レイちゃん。」
静かになったと思えばいきなり名を呼ぶ美奈子に、目を上げたレイは、軽く頬をつつかれてまばたきした。
「つまんなそうに食べるのね。」
不思議なことを言われたようにまばたきするレイに、美奈子は笑いかけた。
「せっかくこんなにおいしんだから、楽しんで食べなきゃ罰が当たるってもんよ。そんな顔してちゃ、おいしいものもまずくなっちゃうわよ。だーいたい、普通のガッコの給食に比べりゃこれってぜーたくよ、ぜーたく。おべんとだって、手抜きの冷凍食品ばっかのこととかあるんだからね。」
さっきの猫はどこへ行ったのかとばかりの美奈子の力説を、余計なお世話というような顔でレイは右から左へと聞き流した。内心の不安を、興味のなさを装うことで隠しおおせていることにほっとする。自分自身さえ、そうやってごまかすことができるようだった。
「昼休みの間だけよ。騒いでないで早く食べたら。」
少しだけそっけなく聞こえるように、美奈子に告げた。諦めたように美奈子が溜め息をつく。ちろりトレイを窺うと、食事に専念した。
 食事の後は腹ごなし、というわけで校庭に出た。もちろん美奈子の主張だった。人のよいクラスメートたちが誘ってきたバレーに美奈子を送り出して、レイは一人ベンチに腰を下ろした。少し、美奈子と離れてみたかったのだ。どれほど気を配ろうと、目を逸らし続けるのにはやはり無理があった。楽しそうにボールとたわむれる美奈子を見ながら、レイは近頃自分を苛むものについて考えようとした。だが考えはまとまらず、連想ゲームのように浮かんでくる言葉を追っていった。敵が現れて、自分たちは戦士として目覚め、集結した。敵は幻の銀水晶とプリンセスを狙っていて。自分たちはプリンセスを守る戦士であったという。美奈子は、本当の自分を思い出せと言った。本当の自分とは、前世のことなのだろうか。思い出せない夢は、前世の記憶なのだろうか。自分たちには確かに何らかの関係があった、それは確信でさえあるのに、何故、何かが違っているようにしか思えないのか。最後に現れた、仲間。月の王国のプリンセスだったという、美奈子。凛とした強さと明るさと気品と、あの時の彼女は確かにプリンセスと呼ばれるにふさわしかった。
『違う。』
何か。何かが胸に迫ってきて。思い出を突き上げられて。焦点を結ぼうとして、目に映る昼休みの風景が消えた。白く染まる視界に像を結ぼうとしているものが何なのか、理解という行為に及ばない。なのに。
「プリンセスじゃない。」
思わず口に出してしまった言葉に、レイは意識を焼かれた。ベンチをずり落ちてうずくまる。痛い。どこが痛いのか、わからなかったが、ただ痛いという言葉だけは思いつくことができた。呼吸が荒くなる。意識は痛みに支配され、遊離してしまっていた。座り込んだレイの蒼白な顔を見咎めて、通りかかった生徒たちが心配げに声をかけてきた。
「火野様?」
「どうなさったの、火野様、お顔の色がすぐれませんわ。」
接点を与えられたことで、意識が半分こちら側へ戻った。一瞬の間を置いて状況を把握すると、レイは繕うように口元だけで笑った。歪んだ笑みに、ますます周囲は心配げな顔になる。バレーに興じていた級友たちも異変に気づいてやってくるのが、視界の片隅に映った。
「いえ、何でもありませんわ。」
「でも・・・」
うるさい外野に閉口するが、それをあからさまにするのさえ面倒なことだった。分裂した感覚が戻らず、冷や汗が背を伝った。心配そうに伸ばされてきた手を払い除ける衝動を辛うじて抑え込んだ時、すっと別の手がレイの肩を抱き寄せた。不思議に心地よい腕の持ち主を確認して、レイは体を強張らせた。錯綜する意識の根元にいる人物だったからだ。何かが全身を駆けめぐり、再び目の前が真っ白になる。その先に、あの日見たものが見えた気がした。悲しさと恐ろしさと憎しみと、愛しさと懐かしさと。それらがぐちゃぐちゃに混じり合い、レイを飲み込んだ。叫ぶように開かれた口から声が漏れることなく、再び閉じられる。そして、全ての力が、レイから失われた。目を閉じぴくりとも動かなくなったレイに慌てたのは周囲だった。慌てふためいてシスターや校医をと騒ぐ生徒たちを、美奈子は制した。
「ご心配なさらないで。火野様は私が保健室におつれしますから。」
反論の隙を与えず、美奈子はレイを抱え直した。完全に脱力した人間を抱き上げて揺るぎもせず、軽く会釈して美奈子は保健室へと向かった。
 保健室のベッドにそっとレイをおろした美奈子は、やれやれと溜め息をついた。靴を脱がせて薄掛けをかける。ドアのプレートに『食事に行っています 何かあれば職員室へ」とあった校医が戻るまでまだしばらくはあるだろう。保健室をひとわたり見渡した美奈子は、何脚か用意されていた椅子をベッド脇に移動させた。
「さすが天下のTA女学院。保健室のベッド一つでも違うわね。」
眠るレイを刺激せぬよう小さな声で呟いた美奈子は、レイの寝顔をのぞき込んだ。まだ少し顔色が悪いが、寝顔は静かだった。
「真っ先に思い出すのはあなただろうと思っていたけど。」
微笑んで寝顔をのぞき込む表情は臈長けていて、元気が取り柄の中学生のものではあり得なかった。そこはかとなく刷かれる蔭りさえ麗しさを引き立てる。繊細な指が眠る少女の頬の線を辿った。過去の記憶は最も辛く悲しく鮮明に残っているものからリバースしてゆく。自身の経験でわかっていたそれは、とても苦しいことだ。まして、美奈子をプリンセスだと思っている今、記憶とのギャップにマーズの鋭敏な感覚は悲鳴を上げている。影が重なり、そっとヴィーナスはレイの唇を奪った。
「こうして魔法使いはお姫様に魔法をかけたのでした。」
記憶と現実の差に疑問を抱かぬように、思い出した時の痛みが和らぐように。
「マーズ。」
愛しげに名を呼ぶ。それは眠る少女が今持つ名ではなかった。もう一度、額に口づける。
「大好きよ、レイちゃん。また出会えてうれしいの。みんなで、プリンセスを守りましょう。」
呟いて満足そうに微笑んだヴィーナスは、表情を愛野美奈子のそれへと切り替えた。レイの白く柔らかな頬をつついてみる。深く眠るレイは、まだ目を覚ましそうにはなかった。

−−−遠くから呼ぶ声・終

  


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