木星は黒猫がお嫌い・1

深森 薫

 

 暗い空に鮮やかに浮かぶ青い星が天空で皓々と輝く頃、あたしは王宮の裏庭を望むテラスで独り空を眺めていた。手すりに腰掛け、天を仰ぐ。頬を撫でる夜風が心地いい。少し待ちくたびれた頃合を見計らったようにホールから一本の影が伸びる。
「ジュピター」
 影の主がその柔らかな声で呼ぶあたしの名は、まるで違う何かの呪文のように風に乗る。
「・・・マーキュリー?」
 立ち上がり、あたしもその人の名を呼んでそれに応える。やがてテラスに現れたのは、その影と同じ位細い人の姿。柔らかな、あまり長くない髪が微風に揺れる。
「ごめんなさい。待った?」
「あ、いいや、全然。あたしも今さっき来たばっかりだから。」
「そう・・・なら、いいんだけど。」
 答えとは裏腹に、彼女はなぜか少し困ったような顔をする。そんな顔をされると、何となしに胸が苦しい。
「あ、う、ん・・・ずいぶん待った。ほんとは、ね。」
 頬を指でぽりぽり掻きながら思わず本当のことを口走るあたしに、彼女は優美に微笑んで見せた。
「待たせてごめんね。退屈したんじゃない?」
「んー、そうでもないよ。いろいろ考え事してたから、あれ見ながら。」
 言ってあたしは頭の上の空に目をやった。
「・・・地球?」
 つられて天を仰ぎながら尋ねる彼女。
「ん、また出張でね、明日っから五日ほど行って来るんだ。」
「明日?・・・ずいぶん急なのね。それに、生態系の定期調査はついこの間済んだばかりじゃない?」
「ああ、そうだよ。今度のは地質調査。近頃やけに地殻変動が活発でね、今までのデータが全っ然役に立たないんだとさ。」
 彼女の表情に少し翳りが差す。
「そーいえばさ、この間降りた時もぼこぼこ噴火してるのが見えたし。そのうち生態系にも影響が出てさ、また調査やり直しになったりして。はは。・・・・・・何?」
「・・・どうしても行かなきゃ駄目なの? その調査。」
「え? ああ、そりゃ、行かなくていいもんなら行かないけどさ。どうして?」
「調査、って、地殻が活動中の所に直接降りてデータを取るんでしょう?」
 顎に手を添えたいつものポーズで考え込む彼女。その顔も不安げに曇る。
 マーキュリーにしちゃおかしなことを訊くなあ。
「そりゃそうさ。変化のないとこなんか調べたってしょうがないじゃん。」
「・・・そういう危険をともなう調査は無人化を進めてる筈なのに。」
 彼女はますます深刻そうに眉をひそめた。
 何か悪いことでも言ったかな、あたし。
「・・・気をつけてね。」
 そう言って顔を上げ、少し切なげな眼差しを向ける彼女。ほの暗いテラスの薄闇とホールからこぼれる淡い光に、形のいい鼻筋と唇が浮かび上がる。白い肌と深い青色の瞳、風にそよぐブルー・ブラックの髪のコントラストは、昼間の強い光の中に居るときよりもはるかに綺麗だった。
 ・・・・・・あ。
「心配、して、くれてるんだ。」
 何気なく漏らしたあたしの呟きに、彼女ははっとしたように視線を逸らした。一瞬あたしはまた何かまずいことを言ったかと思ってぎくりとしたが、彼女の頬にほのかな紅みが差しているのを薄明かりの中に見た刹那、あたしの胸は高鳴り始めた。
「・・・マーキュリー・・・?」
 彼女は朱に染まったその顔を隠すように横を向いた。けれど、一度走り始めた胸の鼓動はもう止められない。あたしは、半歩だけ彼女の方へと進み出た。
「心配・・・してくれるのは、同じ四守護神・・・仲間としてなのかな、それとも」
 そして残り半歩を踏み出しながら後の言葉を口にした。
「少しでも、あたしのことを・・・その、特別だと、思ってくれてるのかな。」
 そして返事を待つ。
「・・・・・・両方、よ。」
 夜風にさらわれそうな小さな返事。その表情は、あたしからは見えない。
「じゃあ、どっちが大きい?」
 敢えて問うてみるあたし。答えあぐねる彼女。どんな顔をしているのかはやはり判らない。あたしは答えを待たずに、最後の一歩を踏み出して彼女の背中を抱きすくめた。
「・・・どっちでも、いいよ。マーキュリーがほんの少しでもあたしのこと想ってくれてるなら」
 腕に少し力を込めて、言葉を続ける力に換える。
「それで、いい。」
 冷えた髪に頬を寄せると、甘い香りが鼻の奥をくすぐった。いつも廊下ですれ違う時、かすかに香るフローラル。彼女も、その香りも今この腕の中にある、そう思うだけで気持ちはどうしようもなく舞い上がった。
 肩に回した腕に彼女の手が触れ、ふと我に返る。あたしは拘束の輪をゆるめてその顔を覗き込んだ。睫毛の間に光る瞳をあたしの視線が捕まえる。今度は彼女も目を逸らさない。顔を近づける。顔が近づく。唇が触れ合う。頬に手を添え、もう一度しっかりと重ねる。たかが触れるだけのキスの筈なのに、胸の鼓動は激しさを増すばかり。
「・・・・・・」
 離れた唇をまた近づけようとしたその時、ふいに彼女の口が何かを言おうと動きかけた。
「ん?」
「私・・・・・・・・・・・・」
 今にも消えそうな声に、心臓が止まりそうな程ぎくりとする。
「何・・・よく、聞こえない。」
 沙汰を待つ罪人のような心持ちであたしは耳を傾けた。
「ジュピター・・・私・・・・・・」
            「マーキュリーぃ?」

 ・・・彼女の名を呼ぶ間延びした声。何かに弾かれたように慌てて腕をすり抜けていく彼女。もちろん、その言葉の続きはおあずけ。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・誰だぁぁっっつ!
「あー、良かった。こんな所にいたのね。探したのよ。」
 そう言いながら、小さな黒い毛のカタマリがホールの明かりを背に現れた。
「ルナ・・・なぁに? 何かあったの?」
 彼女はいつもと同じように優しく応じる。
 そう、まるで何事もなかったように。
「ううん、ただ、ちょっと調べ物しててね。」
 ・・・ただ、ちょっと、位のことで来るな!
 あたしの内なるツッコミに気付いてか気付かないでか、三日月ハゲの黒猫はこちらを横目でちらりと一瞥した。こいつはどうもあたしのことを快く思っていないらしい。
「それで・・・ねぇ、地球の人口データって、どこにあるか知らない?」
「地球国のデータなら宮殿のどの端末からでも開ける筈でしょう?」
「ううん。地球国じゃなくってね、地球に国家が成立するよりもずっと前からの数字が欲しいの。」
「建国前のデータはね、確かコンピュータールームの・・・
 ・・・急ぎなの?」
 明日でいいよ、明日で。明日にしろって。明日にしろってば。
「うーん、できれば今夜中に済ませておきたいんだけど。」
「そう・・・コンピュータールームにあるんだけど、ちょっと分かりにくいところに入れてあるから・・・」
 言いかけて彼女はあたしの方に視線を投げかける。
 そんな眼で見られたら、
「あ、い、行ってやんなよ。あたしはいいから。」
 ・・・って言うしかないじゃんか。
「そう・・・じゃあ、ちょっと行ってみましょう。」
「ごめんね、せっかく仕事終わってくつろいでるときに。」
 分かってんなら来るなよ。
「ううん。いいのよ、気にしないで。
 ・・・ジュピター・・・・・・・気をつけてね、ほんとに。」
「ん、あ、ああ、ありがとう。」
 簡単な言葉だけ残して、彼女はホールの光の中へと消えていった。風が辺りの空気をかき混ぜると、微かに彼女の残り香がした。

 ・・・なんて言おうとしたんだろう。
 こんなおあずけを食らったままで、こんな気持ちで地球へ行けってか?
 冗談じゃない。
 黒猫め、いつか・・・いつか皮剥いで猫鍋にして食ってやる。

 地球への調査行は明日から五日間。

−−−木製は黒猫がお嫌い・1 終

  


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