† 贖罪 †
深森 薫
1
北極点、Dポイント。
氷と雪のみが支配する原野。吹き荒ぶ風の音にかき消される悲鳴。稲妻が、巨大な光の柱となって天地を支える。その根元から青白い光球が現れ、妖魔たちの姿を飲み込みながら四方へと広がって行く。膨大な熱量によって溶かされた氷雪が激流となって外へと流れ出す。やがて雷球は消散し、その中に姿を現したのは、見上げんばかりの氷塊と、黒焦げの妖魔の残骸と、
変わり果てた彼女の姿。
思わず背けた視線のその先に、また別の風景が現れる。
中空に浮かぶ青い星。見渡す限りの瓦礫の野。城を包む紅蓮の炎。足許に転がる月人とも地球人ともつかない屍の、恐怖と苦痛に歪んだ形相。たちこめる血の臭いに混じって鼻腔を突き刺すのは、肉の焦げる臭い。
守れなかった。
何もできなかった。
いとおしいもの達が目の前でがらがらと崩れていくのを、
ただ指をくわえて見ているより他に。
月王国の守護戦士の名を、水星の称号を戴きながら、
何一つ守ることができなかった。
守れなかった。
守れなかった。
守れなかった!
亜美は独り暗闇の中で目を覚ました。乱れる呼吸、激しい動悸。シーツも枕も汗でじっとりと濡れている。そこが見慣れた自分の部屋であることに気付くまでには、どのくらいの時間を要しただろうか。午前三時、時計の針は、何食わぬ顔で時を刻み続ける。記憶を取り戻して以来、亜美は一週間毎日同じ幻にうなされ続けていた。
・・・幻?
違う。
それは紛うこと無き事実。
月の王国の終焉も、彼女の最期も、ただ指をくわえて見ているより他に何もできなかったこと。
できることなら、思い出したくはなかった。何もかも忘れて、普通に暮らしていたかった。
ただ、こうして、悔やむことしかできないのなら。
2
「あ。水野さんだったら、たった今出ていったわよ。」
聞くなりまことは弾かれたように走り出した。職員室、図書室、保健室、理科室、事務室。亜美の行きそうな所を次々と回るが、彼女の姿はどこにも見えない。てれてれと階段を降りる男子生徒の群れをかき分けて玄関へと駆け込んだ時には、亜美の靴はもう無くなっていた。
「ふぇぇぇ。待ってよぉぉ。」
後からぱたぱたとうさぎが駆けてくる。
「亜美ちゃんは?」
まことが無言で首を横に振ると、うさぎは悲しげに溜息をもらした。ダーク・キングダムが倒れた後、皆の記憶が戻ってから丸一週間、亜美は他の仲間たちとほとんど行動を共にしたことがなかった。
「どうしちゃったんだろうね、亜美ちゃん。何かあったのかなぁ。」
「さぁ・・・何か用事でもあるんじゃないのかい?」
「だぁってぇ。もう一週間、ずーっと。毎日だよ。お昼休みだって、一回しかお弁当一緒に食べてないし。休み時間もね、何か様子が変なんだよ。」
「ん・・・そう、だね。」
「どうしたの?って聞いてもね、何でもないの、って。ぜんぜん教えてくんないんだよ。顔色も悪いし。」
「ん・・・。」
「もしかして、病気かなぁ、亜美ちゃん。」
「大丈夫だよ、毎日学校へ来てんだから。そのうちまた元気になるって。」
「・・・うん。」
釈然としない様子のうさぎ。それはまこと自身も同じことだった。
「さ、行こう。レイちゃん達が待ってる。」
今日も、うさぎとまことは二人で火川神社へと向かった。
3
いくら日が長くなってきたとはいえ、予備校の授業が終わる頃にはもう辺りは宵闇に包まれていた。長い講義の後、疲れ気味の学生たちの間を、ひときわ疲れた顔の亜美が階段をとぼとぼと降りて来る。ネームプレートを受付に返し、玄関の自動ドアから一歩踏み出したところで、彼女は息を飲んだ。
「・・・・・!」
ビルの前では、まことがいつになく険しい顔つきで待ち伏せていた。露骨に視線をそらし、足早に通り過ぎようとする亜美。
「待ちなよ。」
まことは、ガードレールに腰掛け足を組んだまま、微動だにせず呼び止めた。亜美の背中がびくんと波打つ。思わず立ち止まった彼女は、それでもまことの方を振り返ろうとはしなかった。そのまま言葉を続けるまこと。
「話ぐらい、聞いてくれたっていいだろう?」
重苦しい沈黙。家路を急ぐ学生たちの笑い声。
「なんで避けるんだよ、あたし達のこと。」
「別に避けてるわけじゃ」
「避けてるじゃないか。」
再び黙りこむ二人。業を煮やしたまことは、立ち上がって亜美の方へと歩み寄った。
「だから。訳を聞かせてよ。」
「・・・ごめんなさい」
逃げようとする亜美。その腕をつかんで逃がさないまこと。
「せめて、あたしにくらいは」
「何でもない」
なお逃げようとする亜美。いっそう強くその腕をつかむまこと。
「何でもなかないだろう?」
「ごめんなさい」
「亜美ちゃん!」
「ごめんなさ・・・」
言葉の途中で、突然視界が真っ暗になる。顔から血の気が引き、頬がひんやりとするのが自分でも分かった。上下の感覚が無くなり、深い谷の底へでも落ちていくような感覚に襲われる。
「亜美ちゃん?おい、亜美ちゃん!・・・」
まことの声も、側を走る車の音も遠くなる。落ちてゆく。いつ果てるとも知れない淵へ。
そして、何も聴こえなくなった。
4
氷と雪の原野。青白い光球。黒焦げの妖魔の残骸。変わり果てた彼女の姿。青い星、赤い炎、転がる屍、血の臭い。守れなかった。何もできなかった。青い星、赤い炎、転がる屍、血の臭い。守れなかった。氷と雪。青白い光球。黒焦げの妖魔。変わり果てた彼女。何もできなかった。それは罪。役立たず。拭い去れない汚名。何度生まれ変わろうと、消えることのない烙印。
役立たず。
役立たず!
「・・・ちゃん。亜・・・丈夫・・・・」
廃虚の中で、亜美は声を聞いた気がした。暖かい声。もう二度と聞くことはないと思っていた、懐かしい声。その声に導かれるままふらふらと辺りをさまよう。その先には、光があった。その光の先には。
「亜美ちゃん・・・起きろ!亜美ちゃん!おい!」
亜美はゆっくりと目を開けた。眩しさに目がくらんだが、やがて、不安そうにのぞき込むまことの顔が、白い天井を背景に浮かび上がった。
「・・・あ・・・」
肩で息をしながら、辺りに目を走らせる亜美。そこが自分の部屋であることに気付くまでにそう時間はかからなかったが、なぜ自分がそこにいるのか、それまでは頭が回らなかった。
「よかった。随分苦しそうだったけど。悪い夢でも見たのかい?」
「ん・・・」
安堵の色を浮かべつつ、なお心配そうに見つめるまことに、彼女は小さくうなづいた。
「びっくりしたよ、ほんと。急に倒れるんだもんな。」
少しずつ霧が晴れるように、記憶が戻ってくる。
「・・・連れて・・・帰ってくれたの?ここまで?」
「ん。」
体を起こして、まだふらつく頭を右手で支える亜美。いつの間にか自分のパジャマに着替えている。
「これも?」
「ん?ああ。制服のままじゃ窮屈かな、と思って。」
さっきまで自分が着ていたその制服は、きちんと整えられて壁のハンガーに掛かっていた。
「・・・ありがとう。」
静かにつぶやきながら、それでも彼女はまことの顔をまっすぐ見ようとはしなかった。
「亜美ちゃん、少し、痩せた?」
「え?・・・さあ・・・・・どうして?」
唐突な問いに戸惑いながら答える亜美。
「え、いや、その、何となく、さ。前より細くなったみたいだし。顔とか、肩とか、腕とか。それに」
まことは、彼女の華奢な首筋を見つめながら言葉を継いだ。
「その、抱き上げた時に、あの、なんか少し軽くなってた気がして。」
照れくさそうに語るまことをよそに、亜美の表情はさえなかった。まことが近寄れば近寄るほど、彼女はじりじりと自分の中に引きこもっていく。
「・・・で、亜美ちゃん。」
まことの口調が、急に改まった。亜美の肩がぴくんと跳ねる。
「なにか、あたしに言いたい事、ない?」
亜美は少しうつむいて、無言のまま静かに首を横に振った。まことは、ベッドの上の彼女の傍らに腰をおろし、その顔をのぞき込んだ。
「何であたし達のこと避けるのか、とか。」
黙ったままの亜美。根気よく待つまこと。しばし続く沈黙。
通り一つ隔てた向こうの国道を、救急車のサイレンが通り過ぎる。
先にしびれを切らしたのはまことの方だった。
「あたし、何か亜美ちゃんに嫌われるようなこと、したかな。」
それでも亜美は何も言わず、白いシーツをじっと見つめている。
「・・・そっか・・・」
まことはぽつりとつぶやいて、亜美の方から顔をそらした。ゆらりと立ち上がるその横顔には、彼女がはじめて見せる傷ついた表情が浮かんでいる。ベッドがきしんで小さな音をたてた。
「違うわ。」
背中を向けたまことを呼び止めるように、亜美は重い口を開いた。
「・・・嫌われるとしたら、私の方だわ。」
「何だよ、それ。」
予想外の答えに目を丸くするまこと。
「嫌う?あたしが?亜美ちゃんを?なんで?」
「私・・・私は・・・」
それまでじっと押さえてきたものが一気にこみ上げ、喉の奥を詰まらせた。
「私、あなたを、見殺しにした。」
思わずまことは眉をひそめた。急に声が不機嫌になる。
「そんな・・・こと。違うよ。」
「何も、できなかった。私」
「やめな、って」
「ただ、あなたが、苦しむのを、見てるだけで」
「いいよ、もう」
「どうにも、できなかった」
「もういいっ!」
無意識に声を荒げるまこと。
「いいかい、あれはあたしが悪かったんだ。あたしのヘマだよ。他の誰でもない、あたしが悪いんだ。亜美ちゃんがどうこう言う筋合いの事じゃない。そんなことで苦しむなんて、馬鹿げてる。冗談じゃない!」
「それだけじゃ、ないわ」
自嘲するように亜美は言葉を続けた。
「いつだって、そう。私ひとりじゃ何もできない。いつも誰かに助けてもらうばかりで」
「そんなこと。あたしだって、何もかもひとりでやってきたわけじゃないさ。」
「あの時だって、私は敵を倒せなかった、一人も」
「・・・そ、そりゃ、そうかもしれないけど、でも」
口ごもるまこと。一番先に倒れてしまった彼女は、その後のことはよくは知らなかった。
「結局私は何もできなかった。・・・あの時と同じね。王国の、月の王国の時と。」
「・・・その話はやめよう。」
まことはあからさまに嫌な顔をしたが、亜美はそんなことにはいっこうに構う様子もない。
「あの時も私、何もできなかった。何も守れなかった。あの時と、今と、私、何も変わってない」
「あれ以上、一体どうすりゃよかったってんだ。あれはもう、あたし達の手にはおえなかった。どうにもならなかった。どうにもならなかったんだよ。」
まことは、自分に言い聞かせるように繰り返した。
「守れなかったのはあたしも同じだよ。みんなおんなじだ。亜美ちゃんだけがそんな風に思うことなんか無い。」
「今度のことだってそうだわ。私は結局何の役にも立てなかった。敵一人倒せない。刺し違えることもできなかった」
「そんなこと、ないって。」
亜美は、うっすらと笑みを浮かべた。仮面のような、生気のない病的な微笑。
「いつだってそうよ。戦士だなんて、偉そうに言ってみても、結局大事なものは何一つ守れないで」
「やめなよ」
「私は戦士失格だわ。何の力もない。何の役にも立たない。私には、みんなと一緒に行動する資格なんかない」
「やめろ、って」
亜美の双眸が危険な輝きを放ちはじめる。まことは、背筋に寒いものが走るのを感じた。
「私、見てたわ、あなたが苦しむのを。あなたの叫ぶ声も聞いた。私、ずっと見てた。見てたわ、あなたが動かなくなるまで。
そう、私はあなたを見殺しにしたのよ。」
「っ・・・!」
「なのに!なのに、何で私はこんな所にいるの?どうしてここにいられるの?まるで何もかもなかったことみたいに!」
「いい加減にしろ!」
まことはつい大声を上げた。
「役に立たないとか、失格だとか、見殺しにしたとか、誰がそんなこと言った?え?みんな亜美ちゃんの勝手な思いこみだろうが!」
右の拳を壁に叩きつける。
「だから言ったろう?誰も悪くない、誰のせいでも無いって!もう何もかもケリはついてんだ。何で今更そうやって自分ばっか悪者にすんだよ!もういい。もうやめてくれ。もうたくさんだ!
亜美ちゃんは悪くない。役立たずなんかじゃない。違う。絶対に違う。亜美ちゃんは悪くない。何度でも言ってやるよ、気が済むまで。亜美ちゃんは悪くない。絶対に悪くない。」
「・・・ありがとう。でも。」
目を伏せたまま淡々と答える亜美の口調は、激したまことのそれとはあまりにも対照的だった。
「何もかもほんとうのことなんだから。
王国は滅びて、あなたは死んだ。私はなんにもできないで、ただそれを見ていただけ。そのことに変わりはないわ・・・赦されるわけがないじゃない?」
「赦さない、って、誰が決めんだよ、んなこと。」
そのまま黙り込む二人。
「誰が決めんだよ・・・言ってみな。」
窓の下の一方通行の道を反対に走り抜けてゆくスクーターの音だけが、夜の虚空に響いた。
「・・・だったら」
まことは、答えあぐねる亜美に詰め寄ると、うつむいたままの彼女の顔を両手で自分の方へ向けた。
「だったら、あたしが。
あたしが赦す。誰にも文句は言わせない、このあたしが赦す。世界中敵に回したっていい。だから。
だから、そんな風に考えるの、やめなよ。もうこれ以上、自分のこと責めるのはやめな。・・・な?」
そう言って真っ直ぐに見つめる鳶色の瞳は、彼女の言葉に嘘はないと、確かに告げていた。
「・・・亜美ちゃんは悪くないよ。」
まことの両手が頬から離れ、背中へと滑り込む。
「じゅうぶん戦ったじゃないか。なんにもできなかったなんて・・・嘘だよ、そんなの。」
両の腕に力を込める。強く、強く、細い躰を抱き締めた。
「亜美ちゃんは・・・悪くない。」
彼女の柔らかな髪に顔をうずめると、それきり、まことは何も言わなかった。
亜美も、それ以上抗おうとはしなかった。
私は、このひとを守れなかった。
けれど、いま目の前にいるそのひとが、私を赦すと言っている。
ならば。
「・・・・・まこちゃん。」
亜美は、恐る恐るその名を口にした。
「ん?」
答えるその優しい響きは、以前と少しも変わってはいなかった。亜美はまことのシャツの背中をぎゅっと握りしめ、目を閉じた。はじめて、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれる。
もう一度やり直せると、
このひとがそう言うのなら。
彼女はまことの肩口に顔を押し当てた。ぽろぽろ、ぽろぽろ、涙はとめどもなくあふれ出す。
このひとが、そうしろ、と言うなら。
それで、いいのかもしれない。
夜は、静かに、夜明けへと向かって更けていった。
−−−贖罪・終
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