泥のように眠るまで

深森 薫

  

 虚空に響く、嗚咽と絶叫。
 天高く渦巻く、紅蓮の炎。
 肉の焦げる異臭が鼻をつく。
 足元に転がる、人とも妖魔ともつかないものの屍。
 天空をふりさけ見れば、星一つ見えない暗黒。
 蒼い筈の地球は、どす黒い赤銅色に変わり果て。

 『時読みの巫女姫』が垣間見た、それが、この星の未来。

*         *         *

  KNOCK-KNOCK
 ノックの音がして、ドアはすぐに開いた。
 広い室内を照らすのは、暖かな淡い光を放つフロアランプが一つきり。ほのかに漂う香が、神秘な艶めかしさを醸し出していた。
「・・・ヴィー・・・」
 部屋の主は、ソファの肘掛けに上体を投げ出した姿勢のまま、不機嫌そうな視線を訪問者に向けた。首の動きに合わせて、黒髪がさらりと流れる。
「ノックはしたわよ?」
 訪問者は悪びれた風もなく言う。金糸の髪が、ランプの光を照り返して輝いた。
「ノックしたら、返事を待つ。それじゃしてないのと一緒じゃない」
「いいじゃない。今更、貴女と私の仲で」
「・・・一般論よ」
 マーズは持っていたグラスをテーブルに置いた。
 からん、と氷が小さな音を立てる。
「珍しいじゃない? マーズが飲んだくれてるなんて」
 グラスに揺れる琥珀色の液体に目を落としながら、ヴィーナスは向かいの肘掛け椅子に腰を下ろした。
「飲んだくれるほど飲んでないわよ、まだ」
「まだ、ってことは、これから飲んだくれるつもりだったのね」
 そう言って、ヴィーナスはグラスを取り上げて一口失敬した。殆どストレートに近いそれは、お世辞にも飲みやすいと言える代物ではない。
「なに人のもの勝手に飲んでんのよ」
「一人で飲んだくれるなんて不健康よ。折角だから私が付き合ってあげる」
「・・・何で」
 視線を逸らしたまま溜息をついて、マーズがぼそりと問う。
「ん?」
「何で、そう思ったの」
「そう、って?」
「何で私が飲んだくれると思ったのか、ってこと。ただの晩酌だとか思わないわけ?」
 マーズはそう言って、ヴィーナスをちらりと見る。
「判るわよ、それくらい」
 口の端を上げて、ヴィーナス。
「マーズのことだもの」
「・・・そんなに単純?私」
 心外だわ、と顔をしかめるマーズ。
「そんなことないわよ?」
 ヴィーナスはグラスを傾けた。こくり、と小さく喉を鳴らし、
「私だから判るの」
 濡れた唇で、妖艶に微笑む。
 マーズは反射的に顔を背けた。
 目が合えば、心ごと絡め取られてしまう。
「・・・で」
 彼女は深い呼吸を一つして、頬杖をついたまま横目でヴィーナスを流し見た。
「他に、どんなことが判った?」
「そうね------」
 ヴィーナスは椅子に深く体を預け、ゆったりと脚を組むと、顎に手を当てて考える素振りを見せる。
「私が訪ねてきて、本当は嬉しい、とか」
「そうかもね」
 さらりと答えるマーズの言葉に、ヴィーナスは一瞬驚いたような色を浮かべた。
「・・・なんて。そんなこと、私が言うと思う?」
 ふ、とマーズが小さく鼻で笑う。
 こんな事でしかヴィーナスを動揺させることができないのは癪に障るけれど。
「あら」
 ほら。
 ヴィーナスの顔にはもう、余裕の色が戻っている。
「半分は本音じゃなくて?」
「半分でいいの?」
「一寸遠慮してみたのよ」
「あら」
 マーズも余裕たっぷりな素振りで笑ってみせた。
「驚いた。遠慮なんて言葉、知ってたの?貴女」
「知ってたわね、残念ながら。これでも結構気を遣ってるのよ、いろいろ」
 マーズの口の悪さも、ヴィーナスはさして気にする風もなく軽口で応じる。
「何? 何か悪い物でも拾って食べたんじゃない」
「そういう貴女は、マーズ。何か悪いものでも視たんでしょう」
 不意打ちに、マーズの呼吸が止まった。
 ヴィーナスの言葉は、その笑顔とは裏腹な鋭さで彼女を貫く。
「・・・何の------こと?」
 それでも平静を装って問い返すマーズ。途端に不機嫌そうになるのは、余裕を失った証だ。
「隠さなくてもいいわ」
 そう言って、ヴィーナスはゆっくりと立ち上がり、
「時読みの巫女姫は辛いわね」
 その足で、心の中へと踏み込んでくる。
「視たんでしょう? 飲んで忘れてしまいたくなるような、何かを」
「・・・だから。どうしてそう思うわけ?」
 ともすれば速くなる呼吸を抑えながら、マーズ。
「判るわよ、それくらい。言ったでしょ?」
 ヴィーナスはマーズの隣に腰を降ろした。ソファが軽く沈み込む。
 吐息の熱が感じられるほどの距離で、浮かべるのは慈母の微笑み。
「他でもない、マーズのことだもの」
 ヴィーナスの指先が、マーズの髪を絡め取る。
「教えなさい。時読みの巫女姫が目を背けたくなるような、何を視たっていうの?」
「・・・そんな風に言われて、素直に教えると思う?」
 マーズは挑み掛かるようにヴィーナスを見据えた。
 しばしの、沈黙。
「いいわよ、別に」
 ふ、と息を吐いて、ヴィーナスが退く。
「聞きだせるなんて思ってないから」
「・・・じゃ、何で聞いたのよ」
 マーズもふぅ、と息を吐く。こちらは呆れたような溜息だ。
「聞いてみただけ」
「言ってることが支離滅裂よ。訳が解らないわ」
 マーズは眉間の縦皺に指を当て、小さくかぶりを振った。
「そう?」
 とぼけた口調で、ヴィーナス。
「でも、私と喋ってる間は忘れてたでしょう?嫌なこと」
「・・・・・・・・・」
「お返事は?」
「喋ってた、なんて言えないわ。話が噛み合ってなかったじゃない。無理問答っていうのよ、こういうの」
「イエスかノーで答えて」
「・・・・・・・・・そうね」
 マーズは不承不承といった風で、唸るように言った。
「でしょう?」
 勝ち誇ったように笑むヴィーナス。
「だからって。この上まだ、あなたの馬鹿話に付き合えっていうの?」
 マーズはうんざりしたように髪をかき上げる。
「いいえ?」
 ヴィーナスはくすりと笑い、
「馬鹿話は、ここでお終い。ここからは------」
 マーズの瞳を覗き込んだ。
「言葉は、抜きよ」
 ------魔性。
 そんな言葉がマーズの脳裏を過ぎる。
 絡みつくようなその眼差しには抗えない。心奪われ、動くことも、声を上げることすらもかなわぬまま、為すがままに身を委ねるより他にないのだ。
 ヴィーナスの瞳には、魔が棲んでいる。
 そして、その魔はいつも不意打ちで彼女を翻弄するのだ。
「マーズ」
 ヴィーナスの指先が、マーズの黒髪をゆるりとかき上げた。
 呼ばれる名の響きの甘さに、総毛立つ。
 強気な言葉も今は喉の奥で行き場を失い、ただ唇を震わすのみ。
 耳許で遊んでいた指先が、頬を伝い、震えるその唇を辿る。
 指先に感じられる吐息の熱さに、ヴィーナスは目を細めた。
 湧き上がる羞恥心に、マーズは目を伏せる。
「------逸らさないで」
 ヴィーナスはそんな彼女の頬を両手で包み、強引に上を向かせ。
「私が。何もかも忘れさせてあげる」
 その魔性の瞳でとどめを刺した。
「私だけを見て。私のことだけ、焼き付けて------目を、閉じて」
 瞼にゆるりと落ちるキス。
「耳を澄まして」
 ほんの一時、重なる唇。
 離れる瞬間、舐めるように動かされる舌が軽く音を立てた。ただそれだけのことが、視覚を遮られただけで甘美な刺激へと変わる。
「私の気配だけ、感じて」
 耳許で囁く声の微かな振動も、研ぎ澄まされた感覚には愛撫に等しい。
「------っ」
 快楽の淵に引き込もうとする手を振り払うように、マーズは大きくかぶりを振り、
「放っといて」
 掠れる寸前の声でそう言って、俯いたまま、両手を伸ばしてヴィーナスの肩を押し退けた。
「そんな気分じゃないの」
「気分じゃないから」
 その手首を、ヴィーナスの手が掴む。
「私がここに居るのよ。無理にでも、その気にさせるために」
「面白いわけ?そんなことして」
 乱れた髪の隙間から、黒い瞳が斜に見上げる。
「別に面白くなんかないわ」
 ヴィーナスは苦笑した。
「ただ、見てられないだけ」
「見くびらないで」
 マーズの瞳に怒りの火が灯る。
「私はそんなに弱くないわ」
「知ってる。でも」
 ヴィーナスはかぶりを振り、
「私が。見てられないのよ」
 小さく微笑んだ。
 その表情に仄かに滲む哀しげな色が、マーズを黙らせる。
「・・・さ。今度こそ、馬鹿話はお終い」
 ヴィーナスはそう言って半ば無理矢理に会話を切り上げると、マーズの唇を自分のそれで塞いだ。先刻の啄むようなそれとは違う、濃密なキス。
 舌をねじ込まれた瞬間、マーズの思考は奪われる。抗議の言葉も、頭の中で形を成す前に霧消した。
 口腔に与えられる巧みな愛撫に、意識が攫われる。
 何もかもが、どうでもよくなる。
 明日の朝が早いことも、飲みかけのボトルの蓋を閉め忘れていることも、ここがベッドルームではないことも、全て。
 背筋を貫く感覚に、脳が痺れる。
 思わず離れた唇の隙間から漏れる自分の声も、他人事のように聞きながら。
 『私が。何もかも忘れさせてあげる』
 先刻の、ヴィーナスの言葉がふと蘇る。
 自分では、いくら忘れようとしても忘れられない。
 襟元から滑り込んだ掌の冷たさに、マーズは首をしならせる。
 自分にはできなかったことをこうも簡単にやってのけるヴィーナスに、嫉妬にも似た一抹の悔しさを覚えながら。
 やがて押し寄せる快楽の波に、身を任せる。

 精も根も尽き、声も枯れ果て、やがて泥のように眠るまで。

−−−終

  


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