†　Amazing Grace　†

深森　薫

　一人家路をたどりながら、亜美は深い溜息をついた。
　先刻から何度もそうしているのだが、胸の奥に何かがつかえているような、何かに締め付けられているような息苦しさは消えない。心細さにおのずと足の運びも速くなる。それは夜道が怖いなどという単純なことではない。もしそうならば、送って行くと言ってくれるまことの申し出を断らなければ済んだことである。無論、いつもなら素直にその申し出を受けるところだが、今日だけはどうしてもそんな気にはなれなかった。うつむいたまま、左右の足を交互に前に運ぶ動作をひたすら繰り返す。歩くことだけに集中していれば、何も考えずにいられる。
　今はただ、何も考えたくなかった。

　　BEEP-BEEP
　来訪者を告げる呼び鈴の音。
　まことはティーポットに湯を注ぐ手を思わず止めて、テーブル越しに向かい合う亜美と視線を交わした。時計は午後八時を指している。来客にしては少々非常識な時間だ。
　　BEEP-BEEP　　KNOCK-KNOCK-KNOCK
　繰り返される音に、まことはむっとしたように大声で返事をして玄関へと急いだ。
「木野さん、宅急便でーす！」

　
「ああ、ありがと、お待たせ」
　小さな包みを手に戻ってきたまことを、二つのカップから立ち昇る白い湯気とダージリン・ティーの香りが迎える。
「何かいい物でも届いたの？」
　応対に出る前とは打って変わって御機嫌な彼女の様子に、亜美は小包の正体に少なからず興味を覚えた。
「うん。まあね」
　まことは差し出されたカップの前に座ると、膝の上で梱包の段ボールからガムテープを丁寧に剥がしはじめた。
「本だよ、智子から」
　その口から出た名前に、亜美の心臓がどきりと縮む。
　まことは鼻歌でも歌いだしそうな顔で、取り出した本を感慨深げに手の中でくるくると回し眺め、ぱらぱらとページをめくり、亜美へと手渡す。
「新刊、来週発売だって」
　差し出された本を、亜美は両手で受け取った。ハードカバーの表紙は、宵闇を思わせる濃いブルーに銀箔の文字。
　『星月夜のみる夢　　高瀬智子』　
　タイトルの下に小さく刷られた作者の名前を、彼女は二通りの意味で知っていた。一つは、デビュー作から二作連続で単行本が百万部突破、新人文学賞を最年少で受賞した十五歳の中学生作家、高瀬智子。もう一つは、まことが転校してくる前の学校のクラスメイト、「トモコ」。
　亜美は裏表紙を開いた。カバーの折り返しに小さな写真、その下に「著者近影」の文字。眼鏡の奥のはにかんだような複雑な笑顔は、作品の主人公のような夢見る少女のイメージとはほど遠い。が、三つ編みにしたお下げ髪はいかにも十五歳の中学生らしく、彼女がベストセラー作家という別世界の人間ではなく、同じ空の下で息をしているのだという確かな存在感があった。
「すごいわね・・・私たちと、同い年なのに」
　溜息のように漏らしながら、亜美は本をまことに返した。
「そうだね。でも、本人はあんまり目立たない子だったよ。どっちかっていうと引っ込み思案−−−いや、相当な引っ込み思案でね。最初の『月夜の天馬』の時だって、投稿する決心がつくまでずいぶん悩んだんだから」
　そう言って本を受け取ったまことは、懐かしげな、いとおしげな微笑を浮かべ、再びぱらぱらとページをめくる。『トモコ』のことを話す時、彼女は決まってそんな表情を見せる。そのことが傍にいる亜美の胸中に軽い痛みを与えているとも知らずに。
「そういう亜美ちゃんだって、結構『すごい人』じゃない。この間だって、『中三受験ロード』の取材も来たし」
「・・・そう？」
「そうそう。『無敗のジュニアチェス女王』ってのもあったね。だけど、なんつっても−−−」
　リアクションに困る亜美をからかうように続ける。
「だけど？」
「やっぱ、『正義の味方セーラー戦士』ってのが一番凄いかな？」
そう言って笑うまことに、亜美もそうね、とつられて笑った。

　いつもの道をたどり、いつものようにエレベーターに乗り、いつものように玄関の鍵を差し込んで扉を開ける。唯一の同居家族である母も今夜は当直勤務で、家の中は真っ暗だった。亜美は近所迷惑にならぬように静かに扉を閉めると、後ろ手に鍵を掛けた姿勢で扉にもたれたまま、特大の溜息を一つ、ついた。

TRRRR TRRRR TRRRR TRRRR
　不意に鳴り出す電話の音が、二人の会話を遮る。宵の口を過ぎると電話のベルはやけに大きく聞こえ、亜美もまことも思わずどきりとして言葉を切った。
「・・・もしもし？」
　まことはのそのそと手を伸ばして受話器を取った。隠しきれない不快の色が声音に滲む。
「はい・・・・・・え？　あ、はい、い、いえ、こちらこそ」
　と、急に頓狂な声を上げ、背筋を伸ばすまこと。電話の主は、どうやらうさぎや美奈子などではなさそうだった。
「い、いえ・・・・・・はい・・・え？」
　声のトーンが急に低くなり、顔つきが真剣味を帯びる。
「いいえ、うちには・・・はい・・・・・・いえ・・・はい、失礼します」
　そう言って壁に向かって頭を下げながら静かに受話器を置いたまことは、眉をひそめ深刻な表情のまま溜息を一つついた。
「どうしたの？」
　亜美も少し顔を曇らせ尋ねる。まことはうん、と答えておもむろに前髪をかき上げた。
「・・・智子の、お母さんから」
　また、亜美の心臓が跳ねる。
「智子が、家に帰ってない、って・・・で、もしかして、うちに来てないか、って、さ」
　うつむき加減のまことの不安に翳る横顔はひどく大人びて、知らない人のようにすら見えた。
「・・・探しに、行く？」
　その言葉を先に口にしたのは、亜美の方だった。
「え？」
「心配、なんでしょう？　顔に書いてあるわ」
「あ・・・」
　まことはばつが悪そうに、照れ笑いのような、苦笑いのような複雑な笑みでぽりぽりと頬を掻いた。
「あ、でも−−−」
「大丈夫。私は、今日は、帰るわ」
　まことは少し悩んだが、やがて「ごめん」と一言呟いて、聞き分けのよい亜美の申し出を受けた。

　智子の活躍ぶりを語る誇らしげな笑顔。
　智子の思い出を懐かしげに語る優しい瞳。
　智子の安否を思う不安に満ちた横顔。
　こんなにもまことの心を揺り動かすことのできる人を、心底羨ましいと、妬ましいとすら思う。醜いと知っていながら、禁じ得ない感情。あれ以上、まことが彼女のことで気を揉むのを見せつけられることには耐えられなかった。
　−−−あんなにもあのひとの心を動かす事が、私にできる？
　ゆるゆると、自問してみる。
　自問しながら、真っ暗な部屋の中で独り、震えた。

　＊　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊

　街はすでに通勤ラッシュの時刻だが、火川神社の境内は都会の中にありながら聖域のような静けさを保っていた。真夏の太陽はまだ昇って間もなく、早朝の空気はひんやりと素肌に心地よい。
「おはよう」
　旅行鞄を手に、レイが母屋から現れた。
「やっぱり、一番乗りは亜美ちゃんね」
　亜美はおはよう、と答え、読みかけのページに栞を挟んで文庫本を閉じた。
「ほんとに亜美ちゃんの爪のアカ、煎じてうさぎと美奈に飲ませようかしらね」
　亜美のとなりに腰を下ろしながら、レイが笑う。
　笑いながら、半分は本気だったりする。
「八時前に集合なんて、無謀だったかしら・・・」
「まこちゃんはともかく、あとの二人は心配ね・・・ま、モーニングコールもしたことだし、とりあえず待ちましょ」
　そう話した矢先、足音と話し声が石段を登り来るのが聞こえ、
「おはよーっ」
「おっはー！」
　まことと美奈子が手を振りながら駈けてきた。
　一瞬動揺する亜美。まこととは、一昨夜の『智子失踪事件』以来まだ話もしていない。まず何と言ったらいいのか、どんな顔をすればいいのか。すぐには思いつかなかった。
「・・・まこちゃんはともかく、美奈、珍しく早いじゃない？」
　早速レイが立ち上がって鋭いツッコミを入れる。
「いやーだぁ、集合時間は厳守。常識よ、じょ・お・し・き」
「あーら、そう。じゃ、その常識で勉強会の時間も厳守して貰いたいもんだわね」
　レイと美奈子の舌戦が始まった。そうなると当然、まことの話し相手は亜美ということになる。
「おはよ、亜美ちゃん」
　まことはスポーツバッグを肩に担いで、いつもと変わらぬ屈託のない笑顔で声をかけた。
　人の気も知らないで。
「あれ、うさぎちゃんは？」
「・・・・・・まだ、来てないけど」
「え、まだ？・・・おっかしいなぁ・・・」
　困惑顔で、右手でかき上げた前髪をくしゃりと混ぜ返すまこと。
　内心の動揺を気取られなかったことに、亜美はほっとした。
「だって、あたし今朝−−−」
「みんなぁーっっ！おっはよぉーっっっ！」
　やたらと元気のいい甲高い声が、二人の会話を遮る。
　レイも美奈子との舌戦を中断して、
「寝坊すけうさぎが今日は早いじゃない！」
　遅れて登場のお姫様に矛先を向けた。
「なによぅ。いくらあたしだって、四回もモーニングコールされたら寝坊なんかできないよぅ」
「はあ？」
　可愛らしくぷっと膨れるうさぎの台詞に、レイは眉をひそめる。
「あに言ってんの、あたし、そんなに何回もした覚えないわよ！」
「なぁんだ、レイちゃんも電話したのか」
「レイちゃんも、って、じゃ、まこちゃんもぉ？　ちぇ、あたしだけだと思ったのにぃ」
　本当に残念そうに、美奈子。
「あ・・・私も、電話した・・・」
　おずおずと、亜美。
「まったくぅ。みんなどぉーしてそう人を信じられないわけ？」
　うさぎは人差し指をびっ！と立て、少し偉そうにのたもうた。
「そーいうこと、うさぎちゃんが言うかぁ？」
「それは・・・」「やっぱ、あれでしょ」
「あんたの普段の行いが悪いからに決まってるでしょ！」
　間髪入れず、非難ごうごう。

　電車に揺られて二時間半。座席のない都心の通勤電車からボックスシートのローカル線へと乗り継いで、小さな駅の改札を抜けた頃には、真夏の太陽がはるかな高みから照りつけていた。ここからは亜美が先頭に立つ。暑いのなんのと好きなことを言う一行を引き連れて、目指すは彼女の父、水野画伯の所有する別荘。
　町中を少し離れた、海を見下ろす小高い丘の中腹に、その別荘はあった。木々の緑と海の碧、遠くに見える島影。小さな港に並ぶ古びた漁船が、そこに人々の営みのあることを物語る。決して豪華な建物ではないが、芸術家の眼鏡にかなった景観は贅沢といってよかった。
　玄関を入ると、吹抜のホールに二階への階段。木目を基調にした内装が、いかにも別荘風でリゾート気分を盛り上げる。一階のリビングは盛大なパーティーが開けそうな広さで、カウンターを隔てたキッチンはあまり使い込まれた様子もなく新品同様。二階には亜美の父の書斎兼寝室と、客間として設けられたツインのベッドルームが二つ。その全てから、海が望めた。
「管理人さんが手入れして下さってるから、どの部屋もそのまま使えると−−−」
「わぁ、海が見える！」
「リゾートよ、リゾート！」
　亜美の説明も耳に入っていない風で、うさぎと美奈子は競うように荷物を放り出してバルコニーへと駈け寄った。
「−−−ただ、ベッドの数が二部屋に二つずつだから、エクストラベッドを一つ出さないと」
「運ぶなら手伝うよ。どこにあるの？」
　そう申し出たまことを、亜美は父の部屋へと案内した。
　書斎を兼ねているといっても仮の住まいのこと、ベッドの他には、小さな書棚とライティング・デスクに椅子、ソファーがある程度だ。
「このソファーが、ベッドになるの。大きいけど、見た目よりはずいぶん軽いから」
「ああ、うん・・・あの・・・亜美ちゃん」
　柄にもなく、まことは何か言いにくそうに切り出した。
「その、この間は、ごめん。折角、泊まりに来てくれたのに」
　亜美はううん、と静かに首を振ってまことの懺悔を受け入れた。あの夜のことはずっと気になっていたが、いざ話題がそこに及ぶと何をどう尋ねたらいいのか戸惑った。
「それで、どうだったの・・・智子さん、見つかったの」
「うん、まあね」
　まことはソファーの背に寄りかかるように手をつくと、亜美の声音や表情に混じる複雑な感情にはまるで気づかない様子で話を続けた。
「すぐに見つけたよ、学校の近くの河原で。何か辛いことがあると、いつもそこに行くんだ。前とちっとも変わってないったら。それから家に連れて帰って、ひとしきり話を聞いて、結局そのまま寝ないで朝帰りさ」
　そう言って、仕方ないな、という顔をする。微笑むような優しい表情だったが、その優しさが自分に向けられたものではないことを亜美は知っている。
「亜美ちゃーん！まこちゃーん！早く早く！」
　と、うさぎの呼ぶ声に二人の会話は遮られた。
「海は逃げないけど、夏の日射しはすぐ逃げちゃうのよぉ！」
　続けて美奈子が、彼女にしては気の利いた台詞を叫ぶ。おおかた、レイあたりが『そんなに慌てなくたって海は逃げないわよ』とでも言ったのだろう。
　まことは今行くよ、と大きな声でそれに答え、
「・・・行こうか」
　亜美を促して、二人でソファーベッドを持ち上げた。
　智子が何故家を飛び出したのか、彼女とどんな話をしたのか、まことは触れなかった。話せば長くなるだろうし、大事な友人の打ち明けてくれたことをぺらぺらと言いふらすような人間でもない。解っていることだったが、それでもやはり智子とまことが自分の知らない時間を共有し、自分の知らないことを語り合っていると思うと、居ても立ってもいられないような不安が亜美を襲った。自分の気付かぬうちに、まことが手の届かぬ別世界の人になってしまいそうな焦燥感。
「じゃーん！この日のために買ったのよ、おニューの水着！」
　ベッドを運び込む二人を尻目に『手伝う』の『て』の字もなくはしゃぐ美奈子が、取り出したるはパープルのワンピース。揃いのパレオとウエストに入った大胆なカットがポイントらしい。
「あたしも！じゃじゃーん！」
　うさぎはピンクのふりふりスカート付きで対抗。
　かくして一行は、荷物の整理もそこそこにビーチへと繰り出していった。

　都心を少し離れているとはいえ、砂浜は夏の海を満喫しようと繰り出した人々でほどよく賑わっていた。海の家が繁盛し、
「ねえ、かーのじょ」
「一人？」
　たとえばこんなナンパ少年が出現するような、リゾートな雰囲気も十分。
「えっ」
　つい思わず立ち止まってしまった亜美は、周囲に目を走らせた。少年たちの言う『かのじょ』とはどうやら自分のことらしい。
「この辺の人じゃないよね。どっから来たの？」
「いえ、あ、あの・・・」
　二人の少年は、軽薄そうな笑顔でじりじりと寄って来た。眼鏡のケースを握り締める亜美。仲間に助けを求めようにも、皆の待っている場所まではずいぶん離れている。彼女の慌てようといったら、妖魔と出遭った時の方がよほど冷静に見えるくらいだ。
「亜美ちゃん！」
　と、浜辺のざわめきの中で彼女の名を呼ぶ声がした。亜美は振り向いて声の主の姿を捜す。心細さは一気に消し飛んでいた。
「ほら、何やってんのさ。早く、行くよ！」
　亜美の側に風のように駆け寄ったまことは、彼女にまとわりついている少年達には言葉を挟む隙も与えず、ぞんざいな一瞥をくれただけで彼女の手首を掴むとすぐにもと来た方へと走り出した。亜美も懸命に走る。まことの背中を追って転がるように砂浜を駈けながら、ぐいぐいと手を引くその力の強さに頼もしさと密かなときめきを覚えた。
「・・・あきらめたみたいだね、あいつら」
　やがてまことは後ろを振り返りながらそう言って、走るスピードを落として立ち止まった。
「うん、ありがとう・・・どうしようか、困ってたの」
「何となく気になってさ。やっぱ、来てみてよかった」
　息を弾ませて答える亜美に、まことは予感が当たったとばかりに悪戯っ子のような笑みを浮かべてみせる。
「あんなの、いちいち相手にしちゃ駄目だよ。急いでるふりしてさっさと通り過ぎんのが一番」
「・・・それができたら悩まなくていいんだけど」
　それもそうか、と軽く肩をすくめるまこと。強く握られていた彼女の指先からふいと力が抜けて、亜美の白い手はその指をすり抜けるように離れる。
「でも、うさぎちゃん達が待ってるのは本当だよ。早く行こう」
　皆のいる方を親指でさして、まことは少し足早に歩き始めた。
　−−−もしも。
　その後ろ姿に、亜美は心の中で問いかける。
　もしも、絡まれているのが他のひとだったら。うさぎちゃんや、美奈子ちゃんやレイちゃんや−−−『あのひと』だったら。
　あなたは、どうしていた？
　愚問だ、と思う。あまりの愚かしさに、自分でも可笑しかった。

「きゃあぁぁぁぁっ！」
　不意に、女の悲鳴が浜辺のざわめきを突き破って聞こえてきた。恐怖はさざ波のように人々の間を伝染し、浜辺の空気が一変する。まことと亜美は互いに目を見交わして、すぐに仲間の待つ場所を目指して人の流れに逆らうように駈けだした。
「うさぎちゃん！」
　駆けつけた二人の姿にうさぎの不安げな顔が少しだけ晴れる。
　美奈子とレイは、悲鳴の聞こえた方向を凝視している。
「何だ、今の声！」
「わからない！けど−−−」
「妖気を感じるわ。それも、とびっきり凶悪な」
「いやぁぁぁぁぁっっっ！」
　再び聞こえる悲鳴。さっきより近く、一層悲痛に。岩場の蔭から若い女性が飛び出してきた。長い髪を振り乱して、膝から血を流している。
　その後を、異形のものが追ってきた。
　異常に大きく、飛び出した両の眼。腫れぼったい顔の中でも一際腫れ上がった分厚い唇。裂け目のように開いた口に、べっとりとこびりついた鮮血。大蛇のような大きな長い尾を引きずり、ぬらぬらと濡れた緑の肌と鱗に覆われた体は、異常に発達した筋肉が盛り上がって見えた。
　そして、ビーチはパニックに陥った。
　恐怖に駆られた人々が一斉に走り出す。
「何あれ！・・・レムレス？」
「じゃないわ！だって−−−あの血は」
　美奈子の問いに異を唱えながら、レイは眉をひそめた。口元についた血は、怪物が人を喰らったことを示唆する。人間の心の『夢の鏡』を狙うレムレスとは明らかに違う。
「何にしても、放ってはおけないね！」
　まことの言葉に頷いて、少女達は変身ペンを握り締めた。

＊　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊

　戦士達は、人里から離れた山中へと妖魔を誘った。木々の間を縫って、鋭い爪を力任せに振り回す妖魔を囲むように五人が走る。
「ここまで来れば大丈夫な筈よ！」
　マーキュリーの合図で、守護神達が一気に攻勢に転じた。
「スパークリング−−−」
「・・・バーニング−−−」
　前を走っていたヴィーナスが横に跳び退る。
「ワイド・・・プレッシャー！」
「マンダラー！」
　赤と青の光の奔流が、周りの立木もろとも妖魔の巨体を灼いた。金属の擦れるような耳障りな悲鳴と、ばきばきと樹木の倒れる音が鼓膜をつんざく。
「セーラームーン！こっち！」
「ひゃぁぁぁーーー！」
　情けない声を上げるセーラームーンの手をマーキュリーが引いた。放っておけば倒木の下敷きになりかねない。
　−−−これって、国有林の無断伐採に当たるのかしら。
　走りながら、思わず頭の中で六法全書を繰る。
「ヴィーナス・ラヴミー・・・」
　立ち止まった妖魔に向かって、ジュピターが疾る。手負いの妖魔は敵意を剥き出しに腕を振り上げた。人間の赤い血と自分の青黒い血にまみれた長い爪は、刃物のように鋭い。
「・・・チェーン！」
　光の鎖が妖魔の腕を絡め取った。
　生じた隙にジュピターが飛び込む。
「咯ぁっっ！」
　気合いとともに、プラズマを纏い青白く輝く拳を妖魔の腹部に打ち込んだ。助走の勢いと全身のバネの力の全てを乗せた渾身の一撃は、化け物然とした巨体を立木の幹に叩き付ける。
「セーラームーンっ！　今−−−」
　　　ぎいぃぃぃぃぃぃぃっ！
　妖魔は雄叫びとともに跳ね起き、周りの戦士達を鈎爪で牽制しながら再び走り出した。
「なんてタフなの！」後を追いながら、吐き捨てるようにマーズ。
「そっちへ逃がしちゃ駄目！民家があるわ！」
　最後方からマーキュリーが指示を飛ばす。
「九十度左に誘導して。そっちなら、森が切れたところは百メートルの断崖絶壁、袋小路に追い込めるわ」
　妖魔を囲むように散開する守護神。派手に仕掛けて指示された方向へと誘導する。やがて森が切れ、正面に紺碧の海が広がった。目もくらむ高さの切り立った断崖の下で、白波が砕け散る。
　　　ぎゃぁぁぁぁぁぁぁんっっ！
　追い込まれた妖魔は、一際大きな叫びとともに反撃にでた。唯一の武器である鈎爪をその怪力で振り回す。
「クレッセント・ビーム！」
「バーニング・マンダラー！」
　容赦のない攻撃が半漁人の怪物に浴びせられる。並の妖魔ならすでに戦闘不能になっているはずだが、硬い鱗と筋肉の鎧がダメージをなかなか通さない。
「ちょっと！ただのはぐれ妖魔がなんでこんなに強いの！」
　苛立ちを露わに、ヴィーナス。
「さあね、誰かさんの行いが悪いから、せっかくのバカンスでこんなのに出会ったりするんだわ！」
　マーズの台詞は、もちろんヴィーナスに向けられたもの。
「それなら・・・」
　仁王立ちの妖魔に向かって、ジュピターが突進する。風を切る鉤爪をかわして懐に潜り込み、
「これでどうだ！」
　妖魔の腹に至近距離から雷球を打ち込む。強烈な一撃に、緑色の巨体がけいれんするように浮き上がった。金切り声を上げ、苦悶する妖魔。
「今だ、セーラーム−−−っ！」
　一瞬勝ちを意識したジュピターを、激しい横殴りのショックが襲う。巨大な爬虫類のそれを思わせる尻尾の打撃は、彼女の体を弾き飛ばすに十分だった。
　それでも体をひねって何とか地に足をつけ、文字通り崖っぷちで踏みとどまるジュピター。飛び抜けた身体感覚と運動能力のなせる業である。
　が。
　次の瞬間、足元が沈んだ。
「っわぁ！」
　短い叫び声と岩盤の崩れる音。彼女の姿が崖下に消えるその様はスローモーションのようにはっきり目に映っていながら、誰も、何も、できなかった。

　崖下は、磯場になっていた。ごつごつとした大岩も、満潮の今は水面下に隠れて見えない。転落したはずのジュピターの姿もその行方を知る手がかりも、付近には見あたらなかった。
「・・・この辺りは潮の流れが時間を追ってころころ変わるの」
　マーキュリーが厳しい表情でコンピューターを叩く。
「だからはっきり特定はできないけれど、ジュピターが潮に流されたのだとしたら、ここから半径五キロ以内の沿岸に流れ着いてる可能性が六十一パーセント、十キロ以内なら九十六パーセント」
「じゃ、とりあえず十キロ以内を手分けして探しましょう。東と西に、二人ずつ分かれて」
　ヴィーナスの言葉に一同は頷いて、それぞれの持ち場に分かれた。尖った岩が点々と海面から顔を出すだけの、常人にはとても歩けない磯を、軽い身のこなしで渡ってゆくヴィーナス。その後を、例によって情けない声を上げつつセーラームーンが追った。
「じゃ、私たちも−−−」
「マーキュリー」
　踵を返したマーキュリーを、マーズが呼び止めた。
「貴女の判断は一つも間違った所はなかったわ。絶対に自分を責めちゃ駄目よ」
　胸の内を見透かしたようなマーズの言葉にマーキュリーは一瞬驚きの色を浮かべ、やがて少し表情を和らげてありがとう、と呟いた。
　−−−頭では解っているけれど。
　妖魔を崖に追いつめる作戦を取ったのは自分である。あまつさえ、転落したまことの身を案ずることよりも妖魔を倒すことを優先させてしまった。
　戦略的判断として、咄嗟の判断として、それは間違っていない。しかし、その判断を下した自分に嫌悪を感じた。何故、そんなに冷静でいられたのか。もしかしたら自分はとてつもなく冷たい人間なのではないか。
　これは、彼女に対する裏切りではないか。
　そして裏切りの報いは最悪の結果という形で与えられる−−−
　恐ろしい考えに囚われそうな心を今は懸命に奮い立たせて、マーキュリーも走り出した。

＊　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊

　真夏の太陽は間もなく西の水平に届こうとしていた。日が傾くに連れ、セーラー戦士達の焦りの色は次第に濃くなってゆく。セーラームーンとマーズは再び西の海岸を、ヴィーナスは沖の無人島にまで足を延ばして捜索を続けている。そして、マーキュリーは再びあの断崖の下に立ち、はるかな高みを見上げていた。
（あんな所から落ちたの−−−）
　思い巡らす彼女の眼に、その瞬間が映像となって浮かんだ。ジュピターの体は宙に躍り、為すすべもなく、石ころのように、恐ろしい速さで墜落する。
（−−−！）
　マーキュリーは思わず目を閉じた。そして、脳裏をよぎるその先の結末を振り払うように頭を一つ振って、彼女は歩き出した。打ち寄せる波が岩肌を這い上がるほどに満ちていた海水は今やすっかり引いて、岩場の下には砂浜が現れている。岸壁は海水に削られて複雑に入り組んだ奇妙な形を成し、所々に洞が口を開けている。
　そのうちの一つを、彼女は覗き込んだ。足を踏み入れると、穴はさらに奥へと続いている。
「意外と、深いのね・・・？」
　そう呟いて、マーキュリーは更に奥へと歩を進めた。一縷の望みを胸に歩き続ける彼女の後ろで外界の光はすぐに届かなくなったが、波の音だけは遠く、低く、岩に閉ざされた空間の中に響いていた。

　洞窟はどこまでも続いていた。濃密な闇が満たす岩の通路を、ポケットコンピューターのディスプレイの仄かな明かりを頼りにマーキュリーは進む。
「ジュピター！」
　精一杯に呼ぶ声は洞穴の中に何度も反響し、やがて小さくなって闇の中に吸い込まれていく。歩みを止めて耳を澄ますも、呼びかけに答える者はいない。諦めて引き返そうかとも思うが、それでも或いは、との思いは断ち難く、再び奥に向かって歩き出す。そんなことを、先刻から幾度となく繰り返していた。
「ジュピター・・・！」
　闇に消えてゆく自分の声に耳を澄まし、溜め息とともにとうとう踵を返したその時。
　別の声が、聞こえた気がした。
　息を呑んで、耳を澄まし、もう一度呼ぶ。
　声は洞窟の奥から、確かに聞こえてくる。
　彼女は歩き出した。駆け出したかったが、足元の悪さと明かりの少なさが邪魔をする。
　−−−自分の心が生み出した幻聴かもしれない。
　早くなる胸の鼓動とはやる心を抑えながら、マーキュリーは懸命に声の主の姿を求めた。
　足元はごつごつとした岩が微妙な上り坂を作っている。
　声は次第に近くなる。
「ジュピタ・・・まこちゃん！どこ！」
　抑えきれない気持ちを抱えながら歩き続けた彼女は、やがて仄かな明かりの中に求め続けた人の姿を見つけた。
「まこちゃん！」
　岩肌に背中を預け、長い脚を投げ出したジュピターの許へ、転がるように駆け寄るマーキュリー。
「・・・亜美ちゃん・・・？」
　手を差し伸べてその声に応えるジュピターを、彼女は力一杯抱きしめた。止めどもなく溢れる涙を拭いもせず、熱くなる頬をジュピターの冷たい頬に押し当てて。
　が、安堵したのも束の間。
「・・・・・・よかった・・・・・・」
　呟いてそっと体を離し、その顔を覗き込んだ時、彼女はジュピターの視線が焦点の合わないまま宙をさまよっていることに気付いた。
「・・・まこちゃん？」
　心当てに、探るように手を差し伸べるジュピター。マーキュリーがその手を取って自分の頬に押し当てると、不安げだったジュピターの表情が少し安心したようにほころんだ。
「見えて−−−ないの」
「・・・うん・・・そうみたいだね・・・っ」
　ジュピターはそう言って、身を起こしかけたが、走る痛みに小さく呻いた。肩で息をしながら、心配そうに覗き込むマーキュリーの頬の涙を指先で拭う。
「ごめん、心配かけて」
「何いってるの・・・謝るのは、私の方なのに」
　マーキュリーもその手でジュピターの頬に触れた。小さな擦り傷に滲む血を、指の背で優しく拭う。
「ごめんなさい・・・私が、あんな作戦・・・あんな場所を選んだから、こんなことに・・・」
「それは違うよ」眉をひそめて、ジュピター。
「こうなったのは、単純にあたしがドジったから。何でもかんでも自分のせいにすんの、いい加減やめなよ」
　諭すように言い聞かせて、髪を撫でる。「ね？」
　マーキュリーはうん、と頷いて、もう一度ジュピターを抱き締めた。
「ごめんね・・・もっと早く、見つけてあげられたら」
　洞窟の空気は真夏とは思えぬほど冷たく、海水に濡れた体は芯まで冷え切っていた。闇の中で一人震えながら、来るとも知れない助けを待つというのはどんな気持ちだったろう。
「−−−あたしは、大丈夫だよ、信じてたから。亜美ちゃんなら、絶対来てくれると思ってた」
　ジュピターも、彼女の背に腕を回して抱き締め返した。
「もう駄目かな、なんて、思ったりもしたけど。
　見つけてくれるとしたら、亜美ちゃんだと思ってた」
「まこちゃん・・・」
「『愛の力』なんてのもちょっぴり期待しちゃったりしてね」
　ジュピターはマーキュリーの肩口に顔を埋めたまま、自分の台詞に照れ笑いを浮かべ、
「・・・やっぱり、来てくれた」
　満ち足りたようにそう呟いた。
　二人はしばしの間無言で抱き合っていたが、やがてマーキュリーの方が腕を緩めてジュピターの顔を覗き込んだ。
「・・・他に怪我は、ない？」
「うん・・・あちこちぶつけたみたいでさ、体中ボロボロだよ。でも−−−」
「でも？」
「亜美ちゃんの顔見れないのが、一番痛い」
　少し不安げに、焦点の合わない視線を投げるジュピター。
「目が見えないのは、一時的なショックのせいだと思うわ。時間が経てば必ず治るから、安心して。・・・さあ、みんなが心配してるわ。早く知らせてあげないと−−−」
　そう言って通信機に手をかけようとしたマーキュリーを、突然ジュピターが抱き寄せた。
「ちょっと待って」
「・・・どうしたの？」
　思いがけない不意打ちに、軽く身もがくマーキュリー。
「みんなには悪いけどさ。もう少しだけ、二人きりで、こうしていたいんだ・・・いいよね？」
　ほんとに少しだけよ、と言い含めて、彼女はジュピターの腕に体を預けた。

　亜美はそっと目を閉じた。
　こんなにも誠実に自分を信じてくれるひと。
　こんなにも誠実に自分を愛してくれるひと。
　その気持ちに、たとえ嫉妬心からとはいえ疑いの念を抱いたことを彼女は恥じた。今日のこの出来事は、そんな自分に与えられた戒めなのかもしれない。そう思い、大事な人を失わずにすんだことを神に感謝する。
「・・・ごめんなさい・・・」
　聞こえぬよう、独り言のように呟いて、小さな決心をする。
　痛いほど誠実なこの人の気持ちに、自分も精一杯の気持ちで応えようと。

　波の音は微かに遠く、低く、洞窟の中に響いていた。

Amazing grace, how sweet the sound
that saved a wretch like me!
I once was lost but now am found,
was blind but now I see.

−−−Amazing Grace・終

初出：『Vert et Bleu』 （発行・いかづち屋＋やるっきゃないないS＋Silent Moon＋
Bitter & Sweet　四サークル合同　2000年7月9日）