この作品が掲載された本『F.F.』は、深森の友人・飛鳥圭さん主宰のサークル「やるっきゃないないS」が、サークル「R24」と合同で発行したものです。一言でいえばジュピター・マーキュリー前世本ではありますが、その世界観及びキャラクター設定はオリジナル色の強い独自のものです。ゆえに、この作品をお読み戴く前に多少なりとも解説を加える必要があるかと思われ、ここに簡単なキャラクター設定を掲載させて戴きました。

S.マーキュリー

人間の手によって創られた人造人間。
S.ジュピターに特別な感情を持ち始めているらしいがまだ自覚はない。

S.ジュピター

人狼の血を引く獣人種。
S.マーキュリーの親バカ(過)保護者でS.ヴィーナスとは恋人同士(?)

S.ヴィーナス

飛鳥圭前世話の主人公。山のような秘密の持ち主。
S.マーズをオモチャにしている(笑)

S.マーズ

神官直系の血を引く巫女。
S.ヴィーナスが大っ嫌いなので愛人(ジュピター)や言いなり(マーキュリー)とも距離を置いている。

 (以上、『F.F.』より抜粋、一部修正) 

  

 要約すると、マーキュリーがファティマで、ジュピターがその親バカ保護者。ジュピタ×マーキュに見えるけど実はジュピタ×ヴィーであるということになるでしょうか(笑)

 ・・・何はともあれ、お楽しみ頂ければ幸いです。

  

  

† 深き淵より †

深森 薫

 

 

『小惑星群ヨリ妖魔ノ一群ガ火星軌道内ニ侵入、急激ニ増殖中。コレヲ直チニ掃討スルベク戦闘員ノ派遣ヲ要請ス。尚、有事れべるハC、派遣人員ハ二人ヲ最大トスル。』

 

 青白い雷球が妖魔の姿を飲み込んだ。
 轟音が火星の赤い大地を激しく揺らし、乾いた砂を巻き上げる。もうもうと舞う土煙が静まると、辺りには再び死のような静寂が訪れた。
「----片付いたな。」
「はい。今の個体で合計四十七個体、他に生命反応はありません。」
 息一つ乱さず軽く鼻を鳴らして呟いたジュピターに、マーキュリーはてきぱきと現状を報告した。
「さ、早く帰ってクイーンに報告しよう。」
「はい。」
 意気揚々ときびすを返したジュピターの後をマーキュリーが追う。そうして二人が帰路に着こうとしたその時。
 マーキュリーのレーダーに突如妖魔の生命反応が現れ、警告灯が激しく点滅を始めた。
 すかさず場所の特定に入る。
 近い。
 やがてスコープ上の光点は、わずかに前を歩くジュピターの背中に重なった。
「・・・! ジュピター!」
 叫んでマーキュリーは駆け出した。
 ジュピターが立ち止まり、振り返り、どうしたんだと口を動かしかけたその横をすり抜けるようにして前へと躍り出る。そして、
 両手を広げた次の瞬間。
 マーキュリーの足元の地面が弾け、飛び散る石のつぶての間から異形の者が姿を現した。先刻全滅させた筈の妖魔の生き残りである。身を潜めて機会を伺っていたのであろう、その狙いは的中し、異形の者は敵である月の戦士を一人、凶暴な触手の射程内に捉えた。
 無数の触手が間髪を入れずマーキュリーに襲いかかる。あるものは手足に絡み付きその自由を奪い、あるものは決して大きいとはいえない彼女の体を貫いた。鮮血にまみれた妖魔の白い触手は、繭を喰い破って姿を現した蛆虫のようにその背中でおぞましく蠢いている。

 全ては瞬く間の出来事だった。
「・・・マーキュ!」
 弾かれたようにジュピターが叫んだ。剣を抜き、地を蹴って宙を舞う。妖魔の姿を映した瞳には激しい憎悪の火が灯った。
「はぁぁっつ!」
 気合いとともに振り下ろす一太刀のもとに、うねうねと波打つ触手を切り捨てる。妖魔は金属を擦り合わしたような不快な悲鳴を上げると、残った触手を退いた。拘束を解かれて支えを失ったマーキュリーの体が地面に崩れ落ちる。
 妖魔は耳障りな声を立てながら最後の抵抗を試みた。残った触手がジュピターの頬を肩を掠めてうっすらと血を滲ませるが、そんな物をまともにくらう彼女ではなく、そんな事でひるむ彼女でもなかった。
「だぁぁぁぁぁぁぁっっつ!」
 ジュピターは攻撃の手の間を縫うように懐に飛び込むと、稲光を纏い蒼白く輝く刀身を妖魔の胴に突き刺した。
 異形の者の、断末魔の声が耳をつんざく。

 敵にとどめを刺したことを見届けたジュピターは、肩で息をしながら振り返り、マーキュリーの姿を探した。
「・・・マーキュ・・・?」
 返事はない。
 ジュピターは側へ寄り、地に伏した彼女の体を抱き起こした。切り取られた妖魔の触手が、胸を腹を貫いたまま生きている物のように動いている。
「このっ・・・!」
 ジュピターはそれを見つけると鷲掴みにして引き抜き、握り潰し、憎々しげに地面に叩きつけた。
「マーキュ!」
 やはり返事はなかった。急速に色を失ってゆく頬も瞼も、紫色の唇も、ぴくりとも動く気配はない。ただ掌にねっとりとした感触を与える生温かい血だけは、ジュピターの指の間から腕を伝い、肘の先から一滴、また一滴と乾いた砂に吸い込まれていった。

 

 

2

 

 ドアは、ノックの音もなく突然に開いた。
「ヴィーナス様!」
 プリンセスの遊び相手をしていたヴィーナスを求めて、メイド姿の少女が動転した様子で駆け込んできた。
「控えなさい!」
 一喝するマーズの口調の鋭さに、メイドの少女はびくりと体を強張らせる。ことプリンセスへの礼儀に関して、もともと神官であったマーズはストイックなまでに厳しかった。当のヴィーナスは、少女の表情から尋常ならぬものを読みとると、ますます動転し怯える彼女をなだめるように肩を抱きドアの外へと導いた。
「なぁに? どうしたの?」
「ジュ・・・ジュピター様が、ヴィーナス様を呼んで来い、とおっしゃって・・・」
「ジュピター、って----戻ってきたのね? 二人とも。それで、ジュピターは何だって?」
「はい・・・」
 答えようとしたメイドの少女は、今にも泣き出しそうに震えおののいた。ヴィーナスの柳眉が微かに顰められる。
「何か----二人とも、無事なの?」
 ヴィーナスが問うと、少女は首を激しく小刻みに横に振った。唇を震わせ声を上擦らせながら、堰を切ったように話し始めた。
「お二人とも、っ、血まみれで・・・床も階段も、真っ赤に・・・とても恐ろしくて・・・わたし、どうしたらいいか・・・」
「それで、二人は今どこに?」
「・・・に、西の玄関の、入口の所に・・・」
「そう、分かった、すぐに行くわ。----そんなに恐がらなくても大丈夫よ、あの二人なら心配ないから。」
 落ち着き払った口調で答えながら、ヴィーナスは怯える少女を慰めるように抱き寄せ、震える唇に軽く口づけた。
「今日はもういいからお休みなさい。そのかわり、このことは他の人には内緒よ。いいわね?」
 少女は小さな声ではいと頷くと、一礼して回廊の向こうへと駈けていった。

「ジュピター・・・マーキュリー?」
 玄関ホールの高い天井にヴィーナスの声が凛と響く。普段はあまり使われることもない王宮の西のはずれの入口だが、贅沢な造りも行き届いた掃除も、正面の玄関ホールに遜色のない物だった。
 返事はなかったが、ヴィーナスは答えを待つより先に帰還した二人の姿を見つけた。
 大理石の白いフロアを血で汚し、ジュピターは小さくうずくまるようにひざまづき、その腕の中でマーキュリーがぐったりと横たわっている。さすがのヴィーナスも息を呑んだが、すぐに我に返り二人の元に駆け寄った。
「ジュピター!」
 返事はなかったが、視線だけが微かに上向いたのを感じてヴィーナスは問うた。
「大丈夫なの? ちょっと、しっかりしなさいよ!  怪我は・・・一体何があったの?」
「・・・やられた」
 尋ねるヴィーナスに、ジュピターは重い口から絞り出すように答えた。
「一匹、残ってやがった・・・全部、殺した筈だったのに。くそったれが・・・隠れて、狙ってやがった・・・勝ったと思って、安心して、油断した・・・その隙を、やられた」
 ヴィーナスは静かに腰を下ろし、マーキュリーの白い頬に手を触れた。
「守って、やれなかった・・・守る、どころか、あたしのせいでマーキュは----」
 手のひらに伝わる肌の冷たさがひどく無機質に感じられ、背筋を寒い物が走る。
 ----人形。
 そんな言葉が脳裏をよぎり、嘆くジュピターの姿もヴィーナスの目にはどこか白々しく、馬鹿馬鹿しく思えた。
「よしなさいジュピター、みっともない。マーキュリーは『死』んだりなんかしないわ。」
「・・・何、だって?」
 ややあって顔を上げたジュピターの驚きと半信半疑の表情が、ヴィーナスの癇に触った。
「助かる・・・の、か?」
「もともと人の手で造られたものですもの。体細胞一個あれば十分再生できる代物よ。時間はかかるけど、この程度、何て事ないわ。
 ----ただし」
「ただし、何だ?」
「これまでの記憶は、全て失われることになるわ。この娘がマーキュリーとして持っていた記憶の全て。」
「記憶がなくなる、って・・・?」
「動いてるコンピューターの電源を無理矢理切るのと同じことよ。それまでのデータは全て失われる。だから、もう一度目覚めたときには何もかも忘れてしまってるわ。あなたのことも、私のことも、自分が『マーキュリー』と呼ばれていたことも、ね。」
 畳み掛けるようにそう告げられ、ジュピターはしばし混乱し言葉を失った。人間としての常識しか持ち合わせていないジュピターには無理もない話だが、それがまたヴィーナスを余計に苛立たせた。
「そんな・・・そんな、ことって」
「あるのよ、そんなことが。」
「そんな・・・だって、今日まで一年半----十八カ月、ずっと一緒に暮らしてきたんだぞ? 何をするにも、どこへ行くにも、いつも一緒で。それを---」
「『忘れるなんて、そんな馬鹿な』?」
 言いかけたジュピターの言葉の先を、ヴィーナスはあざ笑うような口ぶりで継ぐ。
「この娘は人の創った『人形』よ。いくら人間のふりをしてみたって、人形は所詮人形でしかないわ。」
「・・・やめろよ、そんな言い方。」
「再生できる、って言っても、それは体だけ。壊れた『人形』は直せても、一度死んだ『人間』は生き返らない。そういう事よ。」
 ヴィーナスの言葉を反芻するように、ジュピターは無言でマーキュリーの顔をじっと見つめた。どす黒く乾いた血で汚れた指先で触れたその頬は、冷たくはあったがまだ少し柔らかさが残っていた。
「----わかった。」
 やがてジュピターは決心したように口を開いた。
「もう一度、マーキュと一緒に暮らせるなら。
 それ以上は、望まない。」
「・・・そう。だったら、いいわ。」
 全然分かってないじゃない、とでも言いたげに溜息をついたヴィーナスだったが、もうそれ以上反論することはしなかった。
 ほどなくしてヴィーナスの召喚した研究者達が現れた。マーキュリーの体が腕の中から引き取られ、キャリアーの上に横たえられ、白いシートが掛けられる、一連の作業をジュピターはぼんやりと眺めていた。
「三ヶ月。この傷ならその位はかかるわね。あなたには修復が終わり次第----」
「そういう言い方はやめろ。」
「----治療が終わり次第、知らせるわ。それから、クイーンに報告に行くなら、シャワー浴びてからにしなさい。そんな格好でうろうろしてたら、みんな卒倒するわよ。その床の血も、自分できれいに拭いときなさいね。」
 そして、研究者達の群れとヴィーナスの背中が、マーキュリーを乗せたキャリアーとともに王宮の奥へと消えた後も、ジュピターはしばらくその場を動けずにいた。

 

3

 

 柔らかな陽射しが射し、そよぐ風が頬を撫でていくバルコニーの円卓で、ジュピターは独り遅い朝食をとっていた。がらんと開けた眼前の風景にも、一人分の食器に一人分の食事を準備することにも、話もせずただ黙々と食物を口へ運ぶ作業の単調さにも、近頃やっと少しだけ慣れてきた気がしていた。
「ジュピター」
 フォークを握った手を止め、呼ぶ声の方を振り向くと、部屋の中をこちらへ向かって歩いてくるヴィーナスと目が合った。ノックの音には、まるで気づかなかった。ジュピターは自分の名を呼んだ声の正体を知ると、おもむろに中断していた作業を再開した。
「ごめんね、食事中に。」
「ん・・・」
 気のない返事をするジュピターだが、ヴィーナスは構わずテーブルの横に立ったまま話しかけた。
「今、研究室の方から連絡があったわ。マーキュリーの修復----」
 ジュピターの眉がぴくりと跳ねた。刺すような視線が自分に向けられるのを感じ、ヴィーナスは言いかけた言葉を濁した。
「----いえ、治療が、終了した、って。」
 ジュピターは憮然として、手にしたティーカップの中でゆらゆらと揺れる水面を眺めている。ヴィーナスもそれ以上は何も言わず、ジュピターの反応を根気強くじっと待った。
「・・・それで」
 やがてジュピターは呻くように切り出した。
「マーキュの様子、は。」
「外傷は完治したそうよ。」
 ジュピターの問いに、ヴィーナスはごく簡潔に答える。
「・・・・・・・・・それだけか。」
「それだけよ。」
 即答するヴィーナス。ジュピターは無表情な視線をカップの中に落としたまま、再び黙り込んだ。
「それ以上は望まない。そう言ったのはあなたよ。」
 何の感情も交えず、静かに告げるヴィーナス。ジュピターは、ただ穏やかな呼吸を繰り返す他にはぴくりとも動かない。ヴィーナスはそれと分からぬように軽く溜息をついた。
「それで。どうするの?」
「・・・行くよ、食事が終わったら。」
「そう。
 それじゃ、先に行って待ってるわ。」
 用件を済ますと、ヴィーナスはくるりと背を向けて、もと来た道をすたすたと帰っていった。奥の扉がぱたんと音をたてて閉じ、ヴィーナスの髪の残り香もやがて風に舞い消えたが、ジュピターは冷めた紅茶のカップをいつまでも握り締めていた。

 人気のない廊下に、ジュピターの靴音だけが響く。
 研究室へと続く廊下は、地下二階にあるせいか、足音がひどく響いて耳障りだった。三カ所の検問ゲートを通過し、最深部の研究室の前へとやって来たものの、すぐに扉を開けて中へ入ることはためらわれた。
 ジュピターは立ち止まったまま辺りを見回した。当然のこと地下のこの場所には窓などあるはずもなく、人工の照明が昼間から灯され、天井の空調からは程良く冷えた風が吹き出している。地上の風も光も届かないこの空間を、ジュピターは極端に嫌っていた。
 と、不意にモーターの作動音がして、
「居るならさっさと入ってきなさいよ。」
 開いた扉の向こう側で、ヴィーナスがそう言って少し呆れた顔をして見せる。
「遅かったわね。」
「食事が終わったら、って、言っただろ。」
 はいそうですか、と軽く肩をすくめるヴィーナス。促されるまま研究室へと足を踏み入れたジュピターの頬は、少し強張っているようにヴィーナスには映った。
「もう一度聞くわよ。----本当に、いいのね。」
 ドアを閉めながらヴィーナスが問うた。
「ああ。」
「会っても、辛くなるだけ、かもよ。それでも----
 それでも、会いたい?」
「・・・くどい。」
「そう・・・。じゃ、いらっしゃい。」
 ヴィーナスは、あからさまに不機嫌な態度を見せるジュピターの様子もまるで意に介さず、きびすを返して研究室の奥へと歩き始めた。ジュピターもそのあとを追い歩き始める。所狭しと置かれたがらくたの間を縫うように歩き、二人は研究室の一番奥、さらに奥の小部屋の入口までたどり着いた。
「ここで待ってて。」
 ヴィーナスはそう言い残し、小部屋の中に入っていった。一人残されたジュピターは、落ち着かぬ様子でまたきょろきょろと辺りを見回しはじめる。閉ざされた空間、そこは決して狭くはない部屋のはずだったが、何台も置かれた巨大な機械やずらりと並んだ器具の類、書類の積み上げられた事務机などのせいでずいぶん手狭に感じらた。くる日もくる日もこんな所で過ごすことを考えると、それだけで気分が悪かった。
「・・・お待たせ。」
 やがてヴィーナスは、奥の小部屋から白いバスローブを纏った少女を従えて現れた。
 まだ濡れたままの、細い髪。
 柔和な顔立ち。
 小柄で、華奢な体。そして、
 澄んだ蒼い瞳の輝き。
 ジュピターは息を呑み、確かめるようにその一つ一つに目を留め、
「マーキュ・・・?」
 噛みしめるようにその名を口にした。そして、強張っていた頬を緩めて優しく微笑むと、もう一度、今度ははっきりと、バスローブの少女に向かって呼びかけた。
「マーキュ。」
 両手を広げ、浮き上がる気持ちを抑えながら進み出たジュピターだが、彼女の視線がバスローブの少女のそれと出会った途端、喜びも淡い期待も霧のごとかき消えた。
 マーキュリーと呼ばれた少女は、ジュピターの姿を認めるとうろたえたように視線を泳がせ、傍らに控えていたヴィーナスの指示を仰いだ。
「言った筈よ。」
 ヴィーナスは少女の背に軽く手を添えて前に出るよう促しながら、その様子をただ呆然と見つめるジュピターに向かって告げた。
「会えば辛くなる、って。
 あなたの知ってるマーキュリーはもう居ないの。」
 おずおずと進み出た少女は、無表情のままジュピターと向かい合った。間近で見ても、少女の容姿はジュピターの記憶の中のマーキュリーと寸分違わない。
「・・・マーキュ、リー・・・?」
 もう一度、その名で少女に問いかけてみるジュピター。少女は、また指示を乞うようにヴィーナスの方を向く。ヴィーナスは軽く頷いた。
「あなたのことよ。」
 ヴィーナスの承認を得て、彼女は初めてそれが自分の名前であることを認識した様子で、ジュピターの顔を覗き込んだ。
「はい。」
「・・・本当に、覚えて、ないの、か?」
 今度は返事がない----質問を理解していない、とい うべきかもしれない。かつては優しい微笑みを湛えていた蒼い瞳も、今ではジュピターの顔をただぼんやりと眺めているだけだった。
「あたしの、ことも?」
 やはり返事はなかった。ジュピターは少女の頬に手を差し伸べた。掌から伝わる温もりが、余計に胸を締めつける。腕を伸ばしてバスローブごとその体を抱き締めると、まだ少し湿った髪が頬にひんやりと触れた。人造人間用の調整溶液の、どこか血の匂いに似た金属臭が鼻につく。
 何もかもが同じだった。
 心地よい高音の声。
 抱き締めたときの頭の高さ。
 力を込めれば折れてしまいそうな肩の細さ。
 薄いローブ越しに伝わる体温。
 ただ一つ違うのは、今の彼女はジュピターの肩にも腕にも縋ろうともせず、人形のようにじっと抱かれているだけ、ということ。
 ----覚悟は、あった。
 記憶の消失は免れない、そう宣告された時から覚悟はしていたつもりだった。
 しかし。
 ジュピターはそれきり何も言わず、ひとり声を殺して嗚咽した。
「----この娘が守護神である以上」
 やがて沈黙を破るように、ヴィーナスが口を開いた。
「誰かが教育しなければならないわ。
 本当は、ジュピター、あなたが一番適任なんだけど」
 ヴィーナスの口調は先刻からのそれと変わらず淡々としている。
「辛いなら、降りてもいいわよ。」
 ヴィーナスが喋り終えると再び沈黙が訪れた。少女をじっと抱きかかえていたジュピターは、静かに首を横に振った。
「無理しなくても、いいのよ。」
 もう一度、答えの代わりに首を振るジュピター。
「本当に、いいの?」
 念を押すヴィーナスに、ジュピターは小さく頷いた。
 ヴィーナスは微かに眉をつり上げる。
「もしかしたら記憶が戻るかも、なんて、そんなお気楽なこと考えてるんじゃないでしょうね。」
 無言の答えを肯定と受け取ったヴィーナスは、厳しい口調で先を続けた。
「一度消えた記憶の再生は不可能よ。そのことは、あなたも分かってるわね。それでも----」
「・・・それでも、いいよ、それなら」
 ヴィーナスの言葉を遮るように、ジュピターは少し枯れた声を絞り出した。
「最初から、はじめれば、いい、もう一度」
「以前と同じように育つとは限らないわよ。」
「いいよ。分かってる。」
「そう・・・だったら、いいわ、あなたがそこまで言うなら。」
 ヴィーナスは諦めぽく溜息まじりにそう告げると、それ以上何も言おうとはしなかった。
 やがてジュピターは腕の拘束を緩め、少女の蒼い瞳と向かい合った。その顔にはいつの間にか、慈しむような優しさが戻っていた。
「・・・さあ、マーキュリー。」
「はい。」
「今日からあたしと一緒に暮らすんだ。
 あたしの----あたしの名前は----」
 言いかけて、ジュピターは少女の反応に儚い期待をかけた。少女は仔猫のような仕草でジュピターの顔をじっと見上げている。
「名前は、『ジュピター』。・・・分かった、かい?」
「はい、ジュピター。」
 特に変わった反応も示さず答える少女の発音には、少しぎこちなさが残った。
「・・・いい子だ。
 さあ、行こうか。まずシャワー浴びた方がいいな。」
「はい、ジュピター。」
 そう言って歩き出した二人だが、ふと何かに気づいたように立ち止まるジュピター。それに従う少女も足を止め、次の指示を待つようにジュピターの顔を見た。
「ああ、ちょっと待って」
 ジュピターは羽織っていたマントを手際よく外すと、かつてマーキュリーにそうしていたように、少女の体をそのマントでくるんだ。
「ほら、その格好で外に出るのは、ちょっと、ね。」
 大きめのマントの余った裾が床に引きずられている。
 見上げる瞳は自分の姿を映している。
 何も変わってはいないけれど、
 何もかもが変わってしまった。
 ジュピターは、やり場のない愛しさと突き上げる胸の痛みを封じ込めようとするかのように、少女の白い額に口づけた。
「・・・さ、行こうか。」
 そしてゆっくりと唇を離し、瞳を伏せたまま、再びドアに向かって歩き始める。
 少女は返事もせず、まだ暖かな感触の残る額に手を触れてその場にじっと立ち尽くしていた。
「?・・・マーキュリー?」
 怪訝に思ったジュピターが振り返る。
「・・・はい・・・ジュピター・・・」
 そう答える少女の、目は虚ろだった。
「今の個体で・・・合計四十七個体・・・他に生命反応は・・・ありません・・・警告・・・七メートル前方に生命、反応・・・危険、です・・・ジュピター!」
 少女は最後に悲痛な声でそう叫ぶと、突然その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「マーキュリー!」
 慌ててジュピターが寄ってきたが、少女は意識を失ったわけではなかった。一時的な虚脱状態に陥ったらしく、床の上にへたり込んでうつむいたまま一点をじっと見つめている。
「マーキュリー、どうした?」
「ジュピター・・・」
 少女の顔をのぞき込んだジュピターだったが、顔を上げた少女と目が合ったその瞬間、思わず息を呑んだ。
「大丈夫、ですか、怪我は・・・妖魔は?」
 声を失い驚くジュピターに、少女は少し心配げな顔で尋ねた。
「マーキュリー・・・分かるの、か? あたしが?」
「? はい。ジュピター、怪我はありませんね?」
 脈絡のない返答に困惑しながらも安心したように微笑んだマーキュリーを、ジュピターは両手でしっかりと抱き締めた。
「・・・・・・ああ、大丈夫。」
「妖魔は?」
「ああ・・・ちゃんと、倒したよ。あたしが」
「? 本当に、大丈夫ですか?」
「うん」
「どこも、痛くありませんか?」
「うん」
「では、何故、泣いているのですか?」
「・・・なんでも、ないよ。」
 マーキュリーが少し苦しげにしていることにも気づかず、ただ肩に触れる細い指の感触を覚えながら、ジュピターは彼女をきつく抱き締めた腕を離そうとはしなかった。

「----ふぅん。」
 一部始終を見届けたヴィーナスは、くるりと背を向けて研究室の奥へと引き上げた。
「まんざらただの人形、ってわけでも・・・
 ないのかしら、ね。」
 肩をすくめて呟いたヴィーナスの、その表情はいつになく柔らかだった。

  

−−−深き淵より・終

初出:『F.F.』 (発行・やるっきゃないないS/R24 1998年9月10日)

  


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