† 透明な壁 †

  

 時は十二月二十四日、暖房の少し効き過ぎた大講義室。
 開いたテキストは、法学概論。
「・・・それでは、少し早いですが今日のところはこれまで」
 先生のその言葉に、それまで満ちていた気怠い空気が一気に消し飛んだ。
「学生諸君、よいお年を。それから、メリー・クリスマス」
 待ってましたとばかりに片づけを始める学生達の気の早さも気に留めることなく、先生はそう言い残すと、ドアの向こうに姿を消した。
「・・・なぁにがメリークリスマスだか」
 隣の席の友人がぶつぶつとこぼす。
「そう思うなら、休講にしてくれりゃいいのよ。余所の学校は大抵、もうとっくに冬休みに入ってるってのに」
「仕方ないわよ、そーゆー大学に好きこのんで来ちゃったんだから。わざわざ試験受けてね」
 ブックバンドの紐を締めながら、そのまた隣の席の友人が言う。
「いいじゃない。休みになったところで、どうせ暇なんでしょー?」
「うわぁ、きっつぅー。」
 また別の友人が茶々を入れる。
「まぁまぁ、心配たもれるな、迷える子羊よ」
 ブックバンドの彼女はおどけた仕草で両手を広げた。
「今日のこのよき日、いざ共に、独り身の鐘を鳴らさん!」
「・・・何それ」
「シングル・ベルってことでしょう」
 私はくすりと笑って、その意味するところを解りかねている友人達のために謎解きをした。
「イエース、そゆこと。会場は私めが提供します。蓉子も来るでしょう?」
「あ、ごめん、先約があるのよ」
 私がそう言った途端、ぎょっとしたような視線が一斉にこちら側に集まった。
「・・・・・・友達と、ね。リリアンの」
 そう付け足すと、
「あー。リリアン、ね。はいはい」
 一瞬緊張した空気はすぐに解れた。私の「先約」の相手が男性でないことに皆安心したようだ。私は彼女たちに暇乞いをすると、一足先に教室を出た。
 『先約があるの。リリアンの友達と』
 三分の一は本当だが、あとの三分の二は嘘。
 約束があるの、何て言ったけれど。
 本当は、約束なんてしていない。
 面倒くさがりの彼女には、こういうことは突然言うか、どんなに早くても前日くらいがいい。
 それから、相手のこと。
 リリアンの、というのは本当だけれど。
 友達、というのは------。

 

 *        *        *

 

 一旦帰宅した私は、彼女の家に電話を掛けた。電話を取ったのは彼女のお母さんだった。
『あら・・・蓉子さん?』
 私が名乗った時の、微妙な間と抑揚が何か引っかかる。
「いつもお世話になります。聖さんはご在宅でしょうか」
『え?』
 疑念をはらんだ小母さまの声に、心に引っかかっていたそれは確信に変わる。私はすぐに言葉を継いだ。
「いえ・・・四時半に待ち合わせだったのですが、まだ姿が見えないのでちょっと心配になりまして」
 私がそう告げると、ああ、と納得したような声が聞こえた。
 やはり。
『またあの子は・・・いつもごめんなさいね』
「いえ。・・・もう少し待って、それでも姿が見えなければまたお電話いたします」
 私はそう告げて電話を切った。盛大な溜息がこぼれ落ちる。
 彼女はまた、私と一緒にいることにして家を出たらしい。
 行き先は、分かっている。一年のうちのこの日、この時間を彼女がどこで過ごそうとしているのか。
 私は、痛いほど知っていた。

 

 クリスマス・イブとはいえ平日のこと、駅はブリーフケースを抱えた通勤客でごった返していた。家路を急ぐ人々の手に大事そうに抱えられた四角いケーキの箱が、今日が特別な日であることを示していた。券売機で入場券を買い、改札を抜け、階段を上がり、一、二番ホームへと出る。私は向かいのホームに見知った人の姿を探しながらゆっくりと歩いた。
 ホームを一往復して、やはり私の思い過ごしだったかと諦めかけたその時。
 彼女の姿が私の目に飛び込んできた。
 あの日と同じ、キャメルのコートに白いマフラー姿で。階段にほど近いベンチに、彼女は座っていた。
 あの頃よりも、髪は随分短くて。
 表情も、あの頃より少し大人びて------そして、ずっと穏やかになった。
 私もその場に立ち尽くし、じっと彼女を見つめた。オレンジ色の列車が止まるたび、ホームに溢れてはまた吸い込まれてゆく人の波。止めどもなく繰り返されるそれを、彼女はただぼんやりと見つめている。長い足を組んで、ベンチの背にゆったりともたれ。何かを懐かしむようなその目に映っているのは何なのか。
 少なくとも、私でないことは確かだった。
 私と彼女の間を幾本かの電車が通り過ぎた頃、辺りに白い物が舞い始めた。空までもがあの日と同じ情景を演出しようとしているように。
 私は踵を返し、元来たホームの階段を昇った。

 

 正面に、無言で向かい合うように立ちはだかった私を見上げ、彼女は一瞬驚いたような顔をし、それから「ごきげんよう」と跋悪そうに苦笑した。
「ごきげんよう」
 近頃では口にすることも耳にすることもすっかりなくなってしまったその挨拶を、それでも私はごく自然に返すことができた。
「・・・どうしたの、こんな所で」
 コートのポケットに手を突っ込んだまま、彼女は尋ねた。
「どうしたの、じゃないわよ。あなたこそ、私と会う約束してることになってるんじゃないの」
「・・・・・・・・・蓉子には敵わないな」
 半ば観念したように、半ば愉快そうに笑む彼女に、私は何も言わず両手に持っていた缶を差し出した。
 一本はミルクティー、もう一本は無糖のブラックコーヒー。
「さすが」
 彼女は迷わずブラックコーヒーを手に取ると、
「よくご存じでいらっしゃる」
 冷えた両手を暖めるように暫く缶を握りしめてから、プルタブを引いた。
「長いつきあいだもの」
 私は応えた。もちろん、それだけが理由ではないけれど。つきあいが長ければ互いを知り合えるというのなら、彼女と江利子の方が余程解りあえているはずだ。
 ------栞さんだったら、何を買っただろうか。
 ミルクティーの蓋を開けながら、そんな考えがふと胸をよぎる。
 彼女の飲み物の好みなど、あのひとは知っているだろうか。
 いや。
 彼女が苦い汁を飲むようになったのは、たぶん、二年前の今日のことがあってからで。
「・・・さて」
 私が思索に沈んでいるうちに、彼女はその苦い汁の最後の一口をあおって立ち上がった。
「これから、どこ行こうか」
「あら。私も連れてってくれるの?」
 問うような視線を投げる彼女に、私は少し皮肉っぽく応えた。
「そう言って出てきたもの」
「なんだ。アリバイ作り?」
「嫌?」
 彼女はコートのポケットから車の鍵を取り出して、ほらほらと私の目の前で振って見せた。
「そんなことはないけど。気をつけてよね。あなたと心中なんて、ご免だわ」
「心中かぁ」
 悪くないね、それも。
 彼女はそう言ってふふ、と笑った。
「私は嫌よ。『女子大生、聖夜に無惨』なんて、新聞の見出しを飾るのは」
 ---ああ。
 これだ。
 私はふと気付いた。
 これが、私と彼女との間を隔てるものの正体。
 ロマンチストな彼女と、現実的な私。遠くばかり見ている彼女と、目の前を見ている私。こんなに傍にいるのに、私はこんなにも彼女を知っているのに、こんなにも彼女のことが見えているのに。
 手を取りあうことは、叶わない。
 はっきりと間を隔てる、透明な壁。
 それが解っていながら、その壁の前から離れることのできない私は。
「えー。何、そんなにこの世に未練がある? それとも私とじゃ嫌?」
 やはり愚かなのだろうか。
「両方よ」
 降る雪は先刻よりも多くなった。
 今年も、ホワイトクリスマスになるのだろう。

  

《fin.》

  


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