† 夕時雨 †

深森 薫

「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 妹の祥子が祐巳ちゃんを伴って扉の向こうに消えるのを微笑みで見送って、私は再び机上に目を落とした。遅れて出てきた学園祭関係の請求書や領収証に、書類を作成添付して山百合会の決済印を押す。そういう金銭に関するものは、できれば漏れの無いようにきちんと揃えて提出して欲しいのだが、こういった残務処理が終わってしまえば正式に紅薔薇として山百合会の仕事に携わるのも終わりかと思うと、名残惜しい気がしなくもない。
「・・・一雨来そうね」
 出窓の指定席に腰掛け、ガラス越しに空を見上げながら、聖が呑気に呟いた。手にしたカップの中身はたぶん、聖の言うところの『純粋なインスタントコーヒーのお湯割り』。
「本当?」
 私は仕事の手を止めて、窓の外に視線を投げた。空が薄暗いのは日が短い所為だと思っていたのだが、確かに、鉛色の雲が重く垂れ込めて今にも雨粒が落ちてきそうな雰囲気である。
「あら、本当。じゃ、早く片付けて帰らないと。・・・聖、手伝って」
 彼女の返事を聞く前に、私は書き上げた書類と印箱を隣に押しやった。
「祥子と祐巳ちゃん、帰さずに手伝って貰えば良かったのに」
 聖は飲み干したカップを手早く洗って収めると、私の斜め前の椅子に腰を下ろした。
「あら、聖にしては野暮なこと言うわね。できたてほやほや姉妹をつかまえて」
 言いながら私は、彼女の前の書類の、生徒会の捺印欄をとんとんと指で示した。
「ついでに、領収証もお願い」
「人使いが荒いなぁ」
 ぼやきながら、聖は書類の表に山百合会の印を押し、裏に領収証を糊付けしはじめた。私は書類の作成に専念する。そうして、暫くは二人無言で作業に没頭した。
「蓉子」
 ふと、聖が口を開く。
「何?」
「ここ、間違ってない?」
 言われて私は、自分の作った書類と彼女の示したレシート式の領収証を見比べた。確かに、購入した商品の代価を記載する欄に、私は誤って「お預かり額」を記している。
「あら。本当」
 ぶつぶつ言いながら、彼女はちゃんと書類のチェックもしてくれていたようだ。ちゃらんぽらんに見えて、実は仕事ができる。佐藤聖とは、そういう人だ。
「ありがとう、助かったわ。ついでに直して、訂正印押しておいて」
「はいよ」
 軽い口調でそう言って、聖は再び作業に戻った。
 再び、辺りに静けさが戻る。
「・・・そういえば」
 再度沈黙を破ったのはやはり聖だった。
「久しぶりじゃない? こんな時間に、蓉子と二人きりで仕事なんて」
「・・・そうね」
 ふたりきり。
 その言葉の響きに、胸がざわめく。
「大抵、ここには他に誰か居るし−−−」
 そんな動揺はおくびにも出さず、私は言葉を紡いだ。
「あなたは、今年になるまで館に寄りつかなかったし」
 そういやそうだわ、と笑いながら、彼女は私の書き上げた最後の書類に印を押し、領収証を貼り付けた。
「・・・これでお終い?」
 スティック糊にキャップをし、印箱の蓋を閉めながら尋ねる彼女に、私はええ、と頷いて。
「帰りましょう」
 ペンケースを鞄に仕舞って、振り返った。
「・・・ちょっと遅かったね。ほら」
 肩をすくめて言う彼女の視線を追って、私は窓の外を見る。
 鉛色の空は、ついに堪えきれず大粒の雨をこぼし始めていた。
「仕方ないわね。・・・まあ、いいわ。傘が無い訳ではなし」
 私は鞄を開けた。いつも持ち歩いている三つ折りの傘は、軽くてコンパクトな分広げたときのサイズも小さいのだが、それでも何もないよりははるかにましだ。
「−−−あら?」
 だが、その傘が何故か、見当たらない。
 いつも鞄に入れている筈なのに、何故−−−
「−−−ああ」
 思い出した。
 この間、同じように突然の雨に降られて。使った後、広げて乾かして。
 そのまま、家に置きっぱなし。
「無いの?」
 聖が私の肩越しに鞄の中を覗き込んだ。
「みたいね」
 私は盛大に溜息をついた。晴れの日には用心深く傘を持ち歩いていながら、肝心なときに持っていないとは、我ながら情けない。
 そうしている間に、雨は本降りになっていた。春の雨ならば濡れてゆくのも悪くないかもしれないが、今は晩秋。風流を気取って濡れて帰れば間違いなく風邪をひく。リリアンの清く正しい淑女としては、走って帰るのも却下。
 何より、仮にも薔薇の名を戴く者が濡れ鼠になって走るなんて、江利子の言い草ではないが屈辱的だ。
「止むまで待つしかないかしら」
 守衛さんが見回りに来るまでに、止むだろうか。
「『本降りに、なって出てゆく、雨宿り』」
 答えの代わりに、戯けた口調で、聖。
「・・・よ、ね。やっぱり」
 待ったところでこの雨は止みそうにない。だが、雨の中を傘もささず、スカートのプリーツを振り乱して疾走するなら、人気のない時間の方が精神的なダメージは少なくていいかもしれない。
「・・・もしもし、蓉子さん?」
 とりとめもなく巡る私の思考を、聖の声が遮った。
「私が傘を持ってるかも、って可能性は、最初から除外なわけ?」
「あら」
 私は目を見開いた。朝から降り続いていたのならともかく、先刻まで雨の気配など少しもなかった、こんな日に、面倒臭がりの聖が、傘。
「驚いた。聖、あなた傘なんて持ってるの?」
 雪になるんじゃないかしら、と私は殊更に驚いたように窓の外を見遣った。
「失敬な。私だって傘くらい持ってるわよ、たぶん」
「・・・『たぶん』?」
「まあ、いいから。とりあえず、下に降りよう」
 聖は眉を顰める私の肩をぽんぽんと叩いて、ビスケットに似た扉へと促した。
 急な勾配の階段を降りると、そこは物置を兼ねた多目的スペースである。壁際には正体不明の段ボールや角材が積まれ、この間学園祭の舞台劇で使ったばかりの大道具が立てかけられている。
「ちょっと待ってよ」
 そう言って聖は、その壁際のがらくたの間を覗き込んだ。
「ほら」
 手には、黒い大振りな傘。
「・・・それ、いつからそこに?」
 傘に絡みつく蜘蛛の巣へ視線を落としながら、私は思わず尋ねた。
「そもそも、本当にあなたの傘なわけ?」
「正確には、父親の。いつだったかな、朝家からさして来て、帰りには雨あがってたもんだから、ここに置き忘れて、それっきり」
 飄々と答える聖に、私は呆れるのを通り越して感心した。朝降った雨が夕方には止んだ、そんな日は、私の記憶では少なくとも過去一ヶ月のうちには無い。
「いいじゃない。そのおかげで濡れずに帰れるんだから」
 私の顔が、何か言いたげに見えたのだろう。聖はそう言って、玄関の扉を開けた。雨音が、大きくなる。
 雨降りの黄昏は、陰鬱でありながら、清冽さが辺りに漂っていた。
 湿気を含んだ風が、ひんやりと冷たい。
「・・・そうね。とりあえず、素直に恩に着るわ」
「よろしい」
 ワンタッチで、傘は勢いよく開いた。
 同時に、白い綿埃も盛大に舞う。
「・・・・・・・・・・」
「気にしない、気にしない」
 そのうち雨で流れて綺麗になるから、と笑って、彼女は右手で傘を掲げ。
「さ、どうぞ。紅薔薇さま」
 促すように、私を見た。
 雨雲のフィルターを通した淡い光が映し出す、真面目とも、不真面目ともつかない微笑みは神秘的で。
 揺るぎない強さと脆さとが同居する瞳は、人懐こそうに見えて、しかし最後の最後で人を拒絶する暗さを孕む。
 人の性分など、少しくらい時が経ったところで変わるものではないのだ。
「ありがとう、白薔薇さま」
 私はとびきり優雅に微笑んで見せた。
 そして、ゆっくりと歩き出す。
 一年前は、彼女とこんな風に相合い傘で歩くことなど、想像もしなかった。
 一年先、彼女と私の距離は、どうなっているだろう。
 今はただ、触れあう肩の暖かさが、とても心地よかった。

《fin.》

  


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