『共鳴』

深森 薫

 

 夏の前の、土曜の午後。
 買い物客で賑わう十番商店街を、彼女は学生鞄を重そうに両手で提げて歩いていた。
 期末試験が終わると、一学期も残りわずか。終業式までの数日間、消化試合の授業をぼんやりと聞きながら、学生達はもう夏休みへのカウントダウンを始めている。
 だが、誰もが心軽く夏休みを待ちこがれているわけではない。彼女の心は、その学生鞄よりも重かった。試験週間としてたっぷり時間を与えられてさえ点数の取れなかったものを、どうやってあと四日で、それも最初の点数の倍以上の点を取れというのか。
 いや。たとえ四日しか時間が無くとも、本当に勉強に集中することができるならそれも出来るだろう。しかし------
 電機店のウインドウの前で、彼女はふと足を止めた。新製品のワイドテレビの画面は、テニスの国際試合の模様を中継している。今映っているのはアメリカの選手で、名を確かヴィーナス・ウィリアムズといった。『ヴィーナス』はローマ神話の愛の女神で、彼女の祖先であるフェニキア人の呼び名は『アスタルテ』。同じ女神の名を持つ選手の活躍を、彼女は親近感に似た感情とともに見つめた。
 柴・新月・アスタルテ。
 日本人にしては少々変わった名前だ。ハーフかと訊かれることもしばしばだが、実際には四分の一である。子どもの頃には随分からかわれたりもしたが、この名前も自分の中に流れるフェニキア人の血も、今では結構気に入っている。
(------でも)
 彼女は再び歩き出した。
(私は・・・今の私は、本当に「柴・新月・アスタルテ」なの?)
 自分が、時に自分でなくなる。自分の部屋で試験勉強をしていた筈なのに気が付くと街中の路地裏に倒れていたり、ベッドで眠っていたはずなのに、目覚めるとそこは真夜中の学校であったり。何故そこにいるのか、どうやってそこまで来たのか、それまで何をしていたのか、全く記憶にないのだ。次は何をしでかすのか、不安でたまらない。二十四時間、一時も気の休まる時がない。追試の勉強どころの話ではないのだ。
 横断歩道、赤信号で立ち止まる。
(何かが・・・他の何かが、私の中にいる?)
 初めのうちは夜だけだったが、近頃では昼間でも時々それが頭をもたげるようになった。
(それはだんだん大きくなって------)
 気が付くと妙なことを口走っていたり、おかしな方向へ足を向けていたり。
(いつか私は、それに乗っ取られてしまう)
 そんな考えを追い払うように首を振って、顔を上げる。歩行者信号はとっくに青になって、今また赤に変わろうとしていた。少女が一人、何とか渡ろうと道路の向こうを駈けてくる。
 そして、猛スピードで交差点に入ってくる左折車。


 気が付くと、彼女はまた倒れていた。
 起きあがろうとすると、何故か体中が痛い。腕に、柔らかい感触。人? をどうやら抱きかかえているらしい。
 辺りは明るい。抱えているのは、女の子のようだ。上体を起こして、辺りを見回す。場所は、街中の交差点。
 見知らぬ、サラリーマン風の男性が、血相を変えて駈けてくる。彼女は急に不安になった。
 今度は一体、何をやらかしたのか。
「おい、君! 大丈夫かい、怪我は?」
 男性は、心配そうに彼女の側にしゃがみ込んだ。怒っているのではないようだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・っぁ、はい」
「そっちの子は?」
 彼女が手を放すと、少女はもぞもぞと身を起こした。
「・・・・・・はい、大丈夫、です」
 色白の、整った顔立ちの少女だった。
「あの・・・私、何をしたんでしょうか」
 彼女は思わずそう問うた。言った後で、かなり間抜けな質問であることに気付く。サラリーマンは、一瞬何のことか分からないような顔をしたが、すぐにふいと笑みを浮かべた。
「咄嗟のことだったからね。暴走車が突っ込んできて、その子がはねられそうになったのを君が飛び込んで助けたんだよ」
「まったく、とんでもない車だね」
 中年の、やはり見知らぬ女性が学生鞄を持って近付いてきた。
「二人とも轢かれたかと思ったわ」
(また------憶えて、ない)
 差し出された鞄を礼を言って受け取り、
「―――失礼します」
 目を伏せたまま、彼女は踵を返し駈けだした。
 立ち止まる見物人の間をすり抜け、行き交う買い物客の間を縫って、走る。身に覚えのないことで賞賛される居心地の悪さもあったが、次は何をしでかすかわからない自分が怖かった。
 角を曲がり、呼び止める人々の声も目も届かないところまで来て、彼女はようやく立ち止まった。電話ボックスのガラスにもたれ、鞄をばさり、と足元に落とし、激しく肩を上下させて大きく口で息をしながら天を仰ぐ。閉じた瞼の下で、何度も記憶の糸をたぐり寄せた。身体のあちこちに痛みが残る。打撲ではなく、筋肉痛のような。
(・・・やっぱり)
 同じように記憶が途絶えた後、必ず残る身体の痛み。自分の知らない間に、他の『何か』がこの身体を使っている。それも、かなり無茶な使い方を------例えば、子ども一人を抱えて跳ぶ、というような。
「・・・あの・・・アスタルテ、さん」
 名を呼ばれて、我に返る。
 声の方に振り向くと、少女が一人、自分の方を見上げていた。肩で息をしているところを見ると、走ってきたようだ。
 どこかで見たことがある。
「・・・ですよ、ね?」
 さっき、横断歩道で一緒に倒れていた少女だ。
「・・・どうして・・・私の名前を?」
 問い返しつつ、また不安が胸を騒がせる。
 知らない間に、いつ、どこで、自分が何をしでかしたか。
「うさぎさんと、同じ高校の人ですよね。この間、火川神社の勉強会で・・・私も、いたんです、あの時」
 その時のことは憶えていた。そういえば、こんな子がいたような気もする。彼女はああ、と答えて、不安に曇った表情を少し和らげた。それを見て、少女も笑顔を見せる。
「あの、さっきは、助けて下さって、ありがとうございました。どうしても、お礼が言いたくて・・・私、土萌ほたるといいます」
 そう言ってぺこりと頭を下げる少女を、彼女は改めてよく見た。しっかりした物言いだが、中学生ならこの時間はまだ制服を着て歩いている。年の頃は十一、二といったところだろう。色白の綺麗な顔立ちではあるが、相応に童顔だ。
「あ、いえ、え、っと。怪我は、ない?」
 彼女はぎこちなく答えた。厳密には自分が助けたのではないのだが、そんなことを言ったところで変に思われるだけだろう。
「はい。・・・あっ」
 答えた少女の表情から、急に笑顔が消えた。
「その手・・・」
 少女の視線に促されて、彼女は初めて自分の左手に目を落とした。アスファルトで擦ったのだろうか、手の甲一面に血が滲んでいる。痛いと思うよりも、こんな大きな傷に今まで気付かなかった自分に驚く。少女は急いでポケットからハンカチを取り出すと、傷を負った彼女の手を取った。
 その瞬間。
 アスタルテの心臓がびくりと跳ねた。強いて例えるなら体の中を強い電流が通り抜けたような感覚に、総毛立つ。
「あっ、ご、ごめんなさい・・・痛かった、ですか」
 慌てて謝る少女に、彼女は困惑したような、はにかんだような微笑みで首を横に振った。ラベンダー色のハンカチが小さな手で傷口に巻きつけられる様をじっと見つめながら、子どもとはいえ相手は見ず知らずも同然の人間だというのに、こうして触れられることが不快に感じられないのが自分でも不思議だった。
 ------先刻の、手と手が触れた瞬間のあの感覚は何だったのか。思い巡らせている間に、少女は巻き終えたハンカチの端をきゅっと結んだ。
「・・・ごめんなさい、こんなものしかなくて」
「・・・ありがとう」
 少女の懺悔に、彼女は精一杯のぎこちない笑みで応える。
「あの・・・今、お急ぎじゃなかったら、よかったら、ちゃんと手当てさせてください。私の家、この近くなんです」
 その彼女の顔を少し上目遣いに見上げながら、ほたると名乗った少女はそう申し出た。じっと自分を見つめるその瞳に、彼女は遠慮を願う言葉を喉元で呑み込んだ。

*        *        *

「こちらです」
 商店街を少し離れた、品の良い建物の並ぶ住宅街。少女が指したのは、アプローチの両側に灌木の植え込みを配したマンションだった。丁寧に磨かれた、石造りの玄関。どんな人間が住まっているのか今ひとつ想像のつかない高級マンション。低い音を立ててゆっくりと開くエレベーターのドアですら、重厚でどことなく豪華な印象を与える。少女はちょっと背伸びをして、最上階のボタンを押した。
 最上階に着いて部屋の前まで来ると、少女はポケットから取り出した鍵をさし込んだ。シリンダーがかちりと小気味よい音を立てて回り、
「どうぞ」
 少女は扉を開いて彼女を室内へ招き入れた。彼女はリビングへ通されると促されるままにソファーに腰を下ろし、奥の部屋へ駈けてゆく少女の後ろ姿を見送った。あまり物の置かれていない、すっきりとしたリビング。少ない調度品の趣味にも品の良さが漂う。壁には油絵の肖像画。モデルはあの少女だと、すぐに分かった。誰が描いたものなのか------父親か、母親か、或いは他の誰かか。誰にせよ、少女に注がれる溢れんばかりの愛情が、この絵を通してもひしひしと感じられた。
 やがて奥の部屋から出てきた少女は、彼女の斜向かいに座って救急箱をテーブルに置いた。
「手を、出してください」
 促すように差し伸べられた手に、彼女は自分の手を重ねる。触れる瞬間思わず息を止めるが、今度は最初に感じたような衝撃は感じられなかった。少女はハンカチの結び目を解き、消毒液を含ませた脱脂綿をピンセットでつまんで傷口を洗うように撫でる。どこで憶えたのか、その手つきは存外慣れていた。きちんと整頓された救急箱の中身も平均的な家庭のそれよりも充実しており、また頻繁に使われているように見える。
 こんな良家の、誰がそんなに怪我をするというのか。
(------私じゃ、あるまいし)
 彼女は心の中で自嘲した。得体の知れない「何か」に身体を乗っ取られた後、彼女の手はしばしば血に汚れていることがある。大概は何かの返り血だが、自分が傷を負っていることも少なくはない。初めのうちはただ恐ろしくて、独りで震えながら朝を待ったけれど。
 近頃はもう、慣れてしまった。
 そうでなければ、狂ってしまう。
「包帯、きつくないですか?」
 問いかける少女の声で、彼女は我に返った。
「え?・・・ええ、大丈夫」
 少女の細い指先が、眩しいほどに真っ白な包帯に小さな結び目を作る。伏し目がちの、長い睫毛。肩の辺りでふっつりと切り揃えられた黒髪と白い肌のコントラストが、日本人形を思わせる。
(------いけない------)
 彼女の中で、不意に声が聞こえた。
(ここにいては―――この子を巻き込んでは、いけない)
  ぴぃーーーーーーっ
 その声も、耳をつんざくけたたましい笛の音にかき消される。
「あっ」
 少女は弾むように立ち上がると、ぱたぱたと奥の部屋へと駈けていった。やがて笛の音が止まって、
「すみません。今、お茶入れます。ちょっと、待っててください」
 壁の向こうから少女が顔をのぞかせる。
「え、あ、いや、私は------」
「だって、命の恩人におもてなしもしなかった、なんて言ったらせつなママに叱られます」
 悪戯っぽい表情に、弾んだ声。しっかりした台詞とミスマッチのはしゃいだ仕草は、まるで大好きなお友達を初めて家に招待した時のようで。
 彼女は結局、今度もまた断りきれなかった。


「お待たせしました」
 やがて、盆を手にしずしずと少女が姿を現した。華奢な少女に大きな盆はいっそう大きく見えるが、その足取りも手つきも、慣れているようで危なげなところは少しもない。かちゃり、と小さな音をたて、少女はテーブルの上に盆を降ろした。タータン・チェックの布カバーの下から、花柄の白いティーポットが現れる。ポット・カバーなどというものを、紅茶の専門店以外で見るのは初めてだ。
「どうぞ」
 ポットと揃いのカップと、切り分けられたアップルパイの白い皿が彼女の前に並ぶ。
「・・・いただきます」
 彼女はフォークを手に取り、パイのひとかけらをのろのろと口に運んだ。
「・・・美味しい」
 彼女の反応を心待ちにするかのように横顔をじっと見ていた少女は、ぼそりと呟かれた感想に顔を輝かせる。
「よかった。そのパイ、昨日せつなママと一緒に焼いたんです」
 嬉しそうな少女につられて、彼女もふいと笑った。ほどよい甘さのフィリングをもう一口頬張って、熱い紅茶をすする。普段あまり口にしないような素直な言葉が今日はするりと出てくるのは、この笑顔のせいだろうか。
「・・・紅茶も。美味しい」
「お茶はみちるママのお気に入りなんです。入れ方も、みちるママに教えてもらって」
 思わずむせ返りそうになるのを、彼女は何とか堪えた。
「あ・・・・・・・・・あの・・・・・・・・・・・・さっきは、確か『せつなママ』って・・・」
「ええ。みちるママもお料理上手だけど、お菓子はせつなママの方が得意だから」
「あ・・・・・・そ、そう・・・」
 少女は、何の違和感もなくさらりと言ってのける。
 聞きたいのは、そんなことではないのだが。
「他にも、せつなママはパソコンが上手だし、みちるママはバイオリンや絵を教えてくれて------お勉強は二人とも得意で、何でも教えてくれるんです」
「絵・・・・・・じゃあ、あれも?」
 彼女の視線に合わせて、少女も振り向いた。
「ええ。誕生日のプレゼントに、みちるママが」
 少し照れくさそうに、笑う。幸福そのものの笑顔。
 彼女は驚いた。自分の家庭環境も十分に複雑だと思っていたが、それと同じ、或いはそれ以上に複雑な家庭がこの世にあることに------そして、そんな環境にありながらこんなにも幸福でいられる少女がいることに。
「そういえば、今日は、お家の方は・・・お留守?」
「みんな、まだ学校です」
 ★@◇¥#◆&%▲!???!!
「が・・・が、っこう?・・・・・・に、お勤め、な・の?」
「え、と、せつなママはお仕事ですけど、はるかパパとみちるママは高校生です」
「・・・・・・・・・・・・」
 もはや理解不能の世界に突入し、彼女の白い顔は大理石のように固まった。
「あの、パパとママ、っていっても、血は全然つながってないんです。私たち」
 金縛り状態の彼女にようやく気付いた少女は、足りなかった言葉を続けた。
「ほんとのママは私が小さい時に亡くなって、パパは------ちょっと訳があって、一緒には暮らせないから」
 そう言う少女の双眸にほんの一瞬よぎった悲しげな色が、彼女を我に返らせる。
「・・・ごめんね。その・・・悪いこと、聞いたみたいで」
 少女はいいえ、と首を振った。
「でも、はるかパパも、みちるママも、せつなママも、みんな私の家族です------もしかしたら、それ以上かも」
 きっぱりとそう言いきる少女に、彼女は無言で、ただ静かに微笑むことで応える。この少女に贈るには、どんな言葉も稚拙に思えてならなかった。
「あの・・・アスタルテさんのこと、訊いていいですか?」
 ミルクティーに角砂糖を二つ入れて、少女が訊ねる。廻るスプーンがカップと触れあう度、風鈴のように涼しげな音をたてる。
「・・・私の?」
 ええ、と頷く少女の視線と出会い、彼女は思わず照れたように目を伏せてストレートの紅茶を一口、喉に流し込んだ。
「私は、純粋な日本人ではないの・・・名前はカタカナだし、こんな外見だからわかると思うけど。母の母------私の祖母がスロバキアの生まれで、先祖はフェニキア人」
「フェニキア・・・歴史のある民族ですね」
 少女は感心したように瞳を輝かせる。
「地中海で、ローマや、ギリシャよりももっと古い歴史の。カルタゴを造ったのも確か、フェニキア人ですよね」
 彼女は内心、舌を巻いた。
 これまで彼女の話を聞いた人間は大抵、『フェニキア』という言葉にピンと来ないまま首をかしげるか、訳も分からずただ感心するばかり------それも、高校生や、いい歳をした大人でさえ。
・・・という自分も、実はフェニキアとシュメールをテストで間違えて赤っ恥をかいたことがあるが。
 近頃の小学校では、世界史も習うのか?
「え、ええ・・・でも、私は日本生まれの日本育ちだし、言葉だって日本語しか喋れないから、実際私にはあまり関係のない話だけど。それに------」
 彼女は不意に表情を曇らせた。
「できれば、あまり思い出したくないこともあるから・・・」
 少女の瞳から目を逸らし、カップの中に視線を落とす。
「・・・三年前、母と二人で東ヨーロッパを旅行したの。スロバキアの、祖母の故郷に、墓参を兼ねて。
 そこで、ある日突然、母は行方がわからなくなった。向こうの警察も捜索してくれたし、大使館も親身になってくれたけど。結局、母とはそれきりで」
 少女は何も言わない。彼女は白いティーカップの中でゆらゆらと揺れる紅い水面を見つめながら、その視線が自分に注がれているのを感じた。
「それから------日本に戻ってから、私の中で、今までの私とは違う別の私が現れはじめて。初めは時々記憶が抜け落ちるくらいだったけど、そのうち、頭の中で、声が聞こえるようになって。その声はだんだん大きく、強くなって、時には私自身が、知らないうちにおかしな事を口走っていたり」
 彼女は言葉を切った。
 どうかしている。こんな事を、こんな薄気味悪い話を、初対面の、しかも五つも六つも年下の小学生にするなんて。 
「・・・ごめんね。突然、こんな、変な話して------」
 顔を上げ、少女を見る。照れ隠しに肩をすくめ、失笑して。
 視線が出会った。
「・・・自分でも知らないうちに、物を壊していたり、自分が怪我をしていたり。自分のじゃない、誰かの血で汚れていたり」
 途切れた言葉を、少女が続ける。
 彼女は息を呑んだ。
 少女は大人びた表情で彼女を見ている。穏やかな、限りなく無表情に近い、微笑。
「------です、か?」
 絶句する彼女にふいと笑んで首をかしげ、子どもの顔に戻る。
「・・・・・・どうして、それを・・・?」
 やっとのことで言葉を取り戻して、彼女は問うた。
「私も以前、同じようなことがありましたから」
 少女は簡潔にそれだけ言って、また謎めいた微笑みを浮かべた。
 彼女の瞳を捉えて放さない少女の黒い瞳は、鏡のような水面に満月を湛えた、夜の湖の静けさと深さで。
 見つめられると、全てを見透かされるような気がした。
「今はもう、そんなことはありませんけど」
 固く閉ざした心の壁を突き破り、自分自身ですら見えない心の闇をも見通して。
 もたらされるのは、救いかもしれないと。
「・・・私も------」
 そんな、気がした。
「------いつか、そんな風に、笑えるようになるかしら」
 彼女の問いに、少女はええ、と微笑みを崩さず答えた。事もなげに、まるで紅茶は好きかとでも聞かれて、ええ、と答えるように。
 彼女は深い呼吸を一つして、目を伏せた。カップを手に取り、一口すすった紅茶はもうすっかり冷めている。渋くなったダージリンを、彼女は一息に飲み干した。
「ごちそうさま・・・そろそろ、失礼するわ」
 空いたカップの中に視線を落としたまま、そう告げて立ち上がる彼女の所作にあわせて少女も立ち上がった。玄関までの短い廊下を、頭一つ高い彼女の後ろ姿に無言で従う。
 きちんと揃えられた黒い革靴に両足を入れ、彼女は体ごとゆっくりと振り返った。
「じゃあ------」
 暇を乞う言葉の途中で、少女の瞳が再び彼女の視線を捉え。
「また・・・会えますか」
 胸元で両手をきゅっと握り締めた子どもらしい仕草で、縋るような瞳と大人びた声音で、少女は訊ねた。
(いけない)
 彼女の中でまた、声が聞こえる。
(いけない。この子を巻き込んでは)
 頭では解っているけれど。
「・・・ええ」
 自分の気持ちには、抗えない。
 彼女は穏やかに笑んだ。彼女を知る人が見れば、彼女にこんな優しい顔ができるのかと驚くだろうと思うほど、柔らかに。鏡があれば、驚くのは彼女自身かもしれない。
「そのうち・・・近いうちに、きっと」
 その答えに少女の顔が満足げにほころぶのを見届けると、彼女は再び背中を向け、それ以上は何も言わず玄関をくぐった。少女もそれ以上何も言わず、ただ黙って彼女を見送る。
 次の約束はしなかった。
 でも、きっと、また会えるような気がする。
 ------何もせずとも、私たちは惹かれあう
 やがて閉じた扉の奥に少女の気配が消え。
 彼女はゆっくりと歩き始めた。

---了

(UP:05/01/16)

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