『言霊』

飛鳥 圭


 じっとりとした感覚が、柴・新月・アスタルテの意識を現実へ引き戻した。
「はあ・・・」
荒い息と共に洩れる声に、ゆっくりと瞳を開くが、
「・・・・」
一瞬の違和感に、ゆるりと視線を動かして、

ああ、そうか。ここは・・・

 電気の消えた室内は、漆黒の闇の中だったが、今の彼女の目には関係無かった。
 遥かな太古、二つに引き裂かれた惑星の一方は、月を憎み《闇》の力を手に入れ『破壊の惑星』デス・バルカンに、もう一方はそれでも月を慈しみ《光》の力で『再生の惑星』バルカンと成った。その為か似て非なる二つの《惑星の守護力》を内包する守護戦士セーラーアスタルテの、二色の双眸の内、右の瞳は闇の中でも灯りを必要としなくなっていた。
 ベッドから気だるげに身体を起こすと、くしゃりと前髪を掻き揚げ溜息を一つ吐き、のそりとベッドから降りる。
  カチャリ。
 音を立てない様に静かにドアノブを回し、部屋を出る。そしてもう一度、深い溜息。
 今度は、漸く見知った場所に来たと言う、安堵の溜息。
「母さん・・・」
 小さな呟きの後、キッチンへ向かい冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出すと、キャップを外しそのまま口を付け、冷えた中身に喉を鳴らす。
「ふう・・・」
 もう慣れたと思っていた。

 三年前アスタルテは母親と二人、祖父母の墓参りを兼ねた東ヨーロッパへの旅行に出かけ、そこで母は行方不明になった。
生死不明のまま時は流れ、それでも、もしかしたらと思いつつ置いてあった母の部屋だが、急な客人に自室を明け渡してしまい、二日間だけ使用する事になった。
「片付けておけば良かった。」
 小さく呟く。

 母はもう、いないのに。

 事実を知ったのは数ヶ月前。
 アスタルテの内に流れる《女神》の血を手に入れる為だけに、普通の人間だった母は巻き込まれ、リリス・オブ・ダークネスに寄生された。その瞬間に母の人格は殺され、残った肉体も《器》とされ、ダーク・カインに付き従う魔女と成った。
 そして、アスタルテ自身もダーク・カインに身体を奪われ、セーラームーン達に『敵』として刃を向けた。

「ふう・・・」
 もう一度溜息を付き、空になったペットボトルを流しに置いて顔を上げると、キッチンの向こうに自分の部屋のドアが見えた。
「・・・・・・・」
 その部屋の中で眠るのは、自分とよく似た宿命を持つ少女。
 《光》の化身であるセーラームーンを求めるのと同じ位に、心魅かれる《闇》の存在。
「ほたる・・・」
 アスタルテはその名を、呟いていた。



 それは、数時間前の話。
 約束通りのチャイムの音に、アスタルテは玄関に向かった。
「今晩は。夜分遅くにすみません。」
 開かれたドアの向こうには、見知った二人が立っていた。

「本当に、無理を言ってすみません。」
 冥王先生の静かな声が謝罪の言葉を綴る隣には、ほたるがちょこんと座っていて、その傍らには彼女の物であろう小さなバッグが置かれていた。
「いえ、どうせ、一人暮らしですから。」
 お茶を出しながら、答える。
 事の起こりは数日前、何時もの様に授業を終え、保健室に顔を出したアスタルテを待っていたのは、冥王先生からの思いがけない頼み事だった。
 それは、『二日間だけ、ほたるを預かって欲しい。』との事。
 何でも、以前からスケジュールが入っていたみちるさんと天王に次いで、冥王先生まで突発の用事が出来てしまい、ほたるを一人きりにしてしまうとの事で、
「では、二晩だけほたるの事を、お願いします。明後日には迎えに来られると思いますから。」
「わかりました。」
 アスタルテ自身人付き合いはあまり得意ではないが、ほたると居る事は嫌ではない。二日位なら何とかなるだろうし、何より、まだ小学生であるほたるを一人きりで留守番させる訳にはいかないと思い引き受けた。
 彼女の言葉に満足したのか、冥王先生はゆっくりと席を立つと、その長い指先で共に立ち上がったほたるの、さらさらの黒髪を梳く様に撫でる。
「それではほたる。いい子にしているのですよ。」
「はい。せつなママ。」
 笑顔で答えるほたるに、今一度、微笑んで。
 相変わらずの落ち着いた口調だが、それでいて優しさを感じるのは冥王先生が本当にほたるを大切にしているのだと、知る事が出来る。
「手の掛かる子ではありませんが、お願いします。」
 その言葉に頷き、二人で玄関先まで冥王先生を見送る。
 ほたるは暫らくの間、閉じた扉を見つめていたが、ゆっくりとアスタルテの方を向いて、
「これから二日間、お世話になります。」
 と、頭を下げた。その仕草が冥王先生とそっくりで、思わず苦笑すると、
「アスト?」
 気になったのか、ほたるだけが使う呼び名で問い掛けてきた。
「あ、いや・・・やっぱり二人って似てるなって、まるで本当の親子の様だな・・・と」
 少し、気まずそうに煉瓦色の髪を指先で掻きながらの、呟きに近いアスタルテの言葉を聞いていたほたるだが、きょとんとした表情のままで、
「私、アストに言っていませんでしたっけ?私達とせつなママ、プルートは同じ遺伝子情報を持っているんです。」
「へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?」
 一瞬、聞き流しそうになったのか、驚きの声を上げるアスタルテに対し、
「あ、ごめんなさい。それは前世での関係です。私は転生したので、現世ではせつなママとの血の繋がりは無いんですが、『記憶』が有るから、つい。」
「・・・つまり、ほたると冥王先生は、前世じゃ本当の親子・・・だった?」
 確かにセーラー戦士達の中には、前世の記憶を持つ者も居るらしいが、アスタルテ自身はそんな記憶は持っていない。また、ほたるがアスタルテの前で前世の事を口にした事も初めてだったので、思わず訊き直してしまった。
「一番近い言葉を選ぶのなら、そうですね。でも、」
「でも?」
「私、前世でプルートと、過した事は無いんです。」
 そう言いながら、ほたるは何処か寂しげに微笑んだ。



 暫らくは、リビングで二人過ごした。
 ほたるは家を出る前に宿題を終わらせていたとの事で、アスタルテがテーブルに教科書とノートを広げていると、風呂上りでパジャマに着替えたほたるが、横から覗き込んで来た。
「髪、濡れてる。」
 シャーペンを机に置き、彼女が手にしていたバスタオルを受け取り、真っ直ぐな黒髪の水気を取っていく。と、ほたるがくすくすと笑い始めた。
「くすぐったかった?」
 不安に思い、問い掛けると、
「今のアスト、はるかパパそっくり。」
「・・・・・・あんなのと一緒にするな・・・」
 不機嫌に答えると、その反応すら同じだと、もう一度笑われた。
 その後もほたるは宿題を続けるアスタルテの側に居た。だからと言って邪魔をする訳でもなく、只、静かな時間が流れる。それはそれで心地良かったが、
「ふぁ・・・」
「ほたる?」
 宿題が終わる頃、ほたるが小さな欠伸を漏らした事で、その時間は終了した。
 何時ものアスタルテにはまだ宵の口だが、ほたるを自室へ案内しベッドに寝かせると、彼女に合わせて自分も早々に休む事にした。



  からり。
 ベランダへと続くサッシを開けて、夜風を受ける。早すぎた就寝の為か、あの部屋を使った為か、完全に目が冴えてしまった。
 マンション下方の街灯の灯りが、蛍の様にほんのりとまどろむ以外、月の光も星の光も見えない闇の世界に身を委ねる。
「親子・・・か」
 笑顔をかわすほたると冥王先生。二人の姿に自分と母を重ねてみる。
 四人で暮らし始めてから二年ほどだと言っていたほたる。『記憶』は関係無いと言いながらも、冥王先生達と本物の家族の様な絆を持っている様に見える。
 それに対して、たった三年前の事なのに既に思い出す事すら出来ない母親の顔。本当に十数年も一緒に暮らしていたのか、それどころか実在したかすら、自信が無い。

 そして、それは自分自身に対しても、言える事で、

「・・・・アスト?」
 不意に聞こえた声に我に返り、振り向く。
 そこには、小柄なシルエットが一つ。
「・・・ほたる?」
 既に眠っている筈のパジャマ姿の少女が、瞼を擦りながらこちらを見ている。
「ど・・うして・・・」
 その問いには答えず漆黒の室内を灯りのスイッチを探す事無く、ぽてぽてと近付いてくるほたるに、彼女も闇の眷属である事を再認識する。
 そして、
「・・・眠れないの?」
 触れ合う程近付いたほたるが、漸く口を開いた。
「いや、そう言う・・・そうかも、知れない・・・」
 一度壊れた自分の感情に、そんな想い、『母への思慕』がまだ残っているのだろうか。と、思いながらも、答える。

 二人の間に、沈黙が生まれた。だが、

「私、アストの事、愛しています。」
 ほたるの唇が、ゆっくりと動く。

 一瞬、《言葉》の意味が、判らなくて、

「・・・ほ、たる?」
 目の前の暗紫の瞳の少女は顔を上げ、驚きを浮かべたアスタルテの琥珀と赤銅の双眸を覗き込む様に、見詰めている。
「・・・・・」
 どうリアクションを返していいか、困っているアスタルテに気付いたほたるは、
「あ、これは私にとって、幸福のおまじないなんです。」
「おまじない・・・?」
「はい。」
 オウムの様に繰り返すアスタルテに、そう答える。
「はるかパパやみちるママ、せつなママが何時も言ってくれるんです。私を愛してるって。
 その《言葉》で、私は元気になれるから。だから、アストにも御裾分けです。」
 はにかむ様に微笑むほたる。

 おまじない?あの天王達が?

 確かにほたるに対しての天王の親馬鹿っぷりは、傍から見ていて呆れる程だが、外部三戦士達は基本的に現実主義者だ。だからこそ、《滅びの女神》であるほたるを自分達の監視下に置いて・・・

 違う。
 ふいにアスタルテは、その言葉の意味を理解した。

 《滅びの女神》であるほたる、サターンはその手にした鎌を振り下ろした時、全ての命の糸を断ち切ると云う。
 つまり彼女は、全ての生命の消えた世界に、たった一人残され、たった一人で逝かなければいけない。

 天王達はそんなほたるが寂しくない様に、有らん限りの愛情を与えているのだと。

 今夜の事だってそうだ。
 確かにほたるは小学生だが、実年齢よりはるかにしっかりしている。二晩位一人で過ごしても心配する必要は何も無い。それなのに嫌っている自分の元にわざわざ預けたりしたのは・・・

 幸福のおまじないか・・・似合わない事を。

 自然に、小さな笑みが浮かんだ。それならば、
「・・・私も、ほたるを、愛してる。」
 呟く様な、囁きだったが、それでも、アスタルテの脇腹に両手が回され、力が篭もったのが分かったから、その小さな身体を優しく抱きしめ返した。



 どのくらいそうしていたろうか、ほたるの頭が、小さく傾く。
「・・・・眠い?」
 今度はアスタルテが覗き込む様に問い掛ける。
 無理も無い。《滅びの女神》と呼ばれていても、身体はまだ小学生なのだから。
「ん・・・ん。」
 既にとろんとした瞳で、首を横に振り、大丈夫と答えるが、寝言の様にしか聞こえない。
「もう、眠ろう。明日も学校だし。」
「ん・・・」
 学校と言う言葉に反応したのか、今度は首を縦に振る。
 身体を離し、先に行こうとしたら、そっとほたるが手を繋いで来た。一瞬、照れくさかったが、そのまま部屋の前まで導く。
「・・・ねえ、アスト・・・」
「・・・・ん?」
 部屋の前で繋いでいた手を離し、ドアノブに手を掛けた時、アスタルテの上着の袖が引っ張られた。
「一緒に、寝る?」
 上着の袖を掴んだままの、どこか心配そうにほたるの問い掛けに、
「いや、そんな事をしたら、本気で天王に殺されそうだ。」
 微笑みを浮べている自分に、気付く。
「・・・アスト?」
「私はもう、大丈夫。今は、ほたるが起きてる事の方が心配だ。」
 真直ぐな黒髪を、梳く様に撫でる。
「ん・・・はぁい。」
 ふわりと欠伸をしながら答えて、
「お休みなさい。」
 ほたるはドアの向こうに消えていった。



 アスタルテは、そのドアを暫く眺めていたが、
「愛してる。・・・か。」
 もう一度だけ、その響きを口にする。
 それは、どこかくすぐったくて、やはり自分には似合わないと苦笑する。

 だけど、

 たった一言で、この心を穏やかにしてくれた少女の為に、朝は弱いが、朝ご飯位は作ってあげようと思った。

 
 

---了

(UP:08/20/05)

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