§1 Private Lesson
深森 薫
「……まいったな」
ジュピター・フォレストは、書架を見上げていた。
「脚立どころか梯子もないのかよ」
男子生徒かと見紛う長身だが、ポニーテールに結い上げた榛色の髪と姿勢の良い立ち姿のシルエットは、間違いなく女子生徒のそれだ。ローブのフードや袖口から覗く裏地は蒲公英色――ハッフルパフの色。
ホグワーツ城の一階にあるこの図書室は、蔵書数数千とも数万とも言われる。要するに多すぎて正確なところはだれもわからないということだ。広いフロアには本がぎっしりと詰まった背の高い書架が整然と並び、四方の壁面は一際大きな書架で天井まで埋め尽くされている。彼女が見上げていたのは、東の壁面の北寄りの一画だった。
「何か、捜し物かしら」
腕組みをし、首を捻り、時折頭を掻きながら書架の一点を見つめるジュピターの背後から、不意に声がする。囁くようなソプラノは、静寂に満たされた図書室ではっきりと彼女の耳に届いた。
声の主は、細身の女生徒。すっきりとしたショートヘアに白い肌、整った顔。濃紺のレジメンタルタイをきちんと締めた着こなしは、いかにもレイブンクローの優等生といった風情である。
「ああ……うん」
曖昧な返事をしながら、ジュピターは素早く考えを巡らせた。
相手は一人、こちらも一人。人相を見るに、意地の悪い人間ではなさそうだ。
(っていうか)
おそらく、本当に親切心から声を掛けてくれたのだろう。
(綺麗な子だな)
「えぇと……魔法生物飼育学の本、探してて」
――もしかしたら、嘲笑われるかもしれない。
「あの、ずっと上の方にあるんだけどさ」
一抹の不安はありつつも、正直に話してみることにする。
「梯子も脚立もなくて」
「……そうね」
優等生は、ジュピターの指さす先に目を遣りながら、
「本が取りたければ、魔法で取るか、自分が魔法で上に行くか。魔法を使わずに取ることはあまり想定していないでしょうから」
梯子は置いてないわね、と、慎重に言葉を選びながら答えた。
「新入生……には見えないけれど。何か、魔法を使うことに問題でも?」
続けて問いを投げかける相手に、ジュピターは少なからず驚く。
離れた場所にある物を呼び寄せる呪文は四年生の授業で習うものだが、汎用性が高いため、魔法使いの家庭に生まれた者ならば学校で習うまでもなく多少なりとも使えるのが普通だ。もうすぐ五年生になろうというのにそれが使えないということは、余程の落ちこぼれか、家庭で魔法を教わる機会のない非魔法族生まれであることを意味する。そして、それらは魔法界においてしばしば差別や嘲笑の対象となる。だが、今目の前にいるレイブンクローの優等生は、少しも見下したような態度を見せない――それは、この学園においては珍しいことだった。
「……上手くコントロールができなくて、さ」
ジュピターは少し跋が悪そうに、本当のところを答える。
「もしあたしがここで呼び寄せの呪文を使ったら、多分、あの一画の本が全部飛んでくる」
前に一度やらかしてマダム・ピンスに滅茶苦茶怒られたんだ、と頭を掻きながら言うジュピターに、今度は優等生が驚いたように目を見開いた。
「それ。見てみたいわ」
「えっ」
そう言う彼女の声は、心なしか少し楽しそうだ。そういえば、レイブンクローの生徒は妙なところに食いつく変人が多いと、誰かが言っていたような気がする。
「いやいやいや次やったらあたし今度こそ出禁になるから!」
「大丈夫よ」
微笑みを浮かべながら、優等生。やはり楽しそうだ。見間違いではない。
「ちゃんとフォローはするわ。いざとなったら、私がやったことにして構わないから」
彼女はそう言うと、ローブの懐から杖を取り出した。亜麻色の、真っ直な細身のシンプルな杖は、持ち主の涼やかな佇まいに似つかわしい意匠に思われる。
「いやいやいや全然大丈夫じゃないだろそれ」
「貴女も一回目は叱られただけで許して貰えたのでしょう? それなら問題ないわ」
「あたしの時はおまけにハッフルパフが十点引かれた」
「少しくらい引かれても構わないわ。点数なら他で十分稼いでるし」
「何でそこまでして見たいかな……」
ね? と美少女に可愛らしく首を傾げられて、ジュピターは渋々杖を取り出した。アンティークの調度品のような艶のある褐色の、頑丈そうな杖だ。
「ほんとに何とかしてくれるんだろうな?」
「ええ」
そして、ブツブツ言いながら後ろに下がり、本棚と十分に距離を取ると、目指す本の深紅の背表紙に杖の先を向け。
深い呼吸を一つ、
『来い!』
力あることばを解き放った。
お目当ての本を中心に、本棚の一画が青白く光ったのは一瞬。
数十冊の本が一気に飛び出し、真っ直ぐにジュピターの元へと飛んできた。その様はまるで、獲物に一斉に襲いかかる大鴉の群だ。
「うぉわっ!?」
――『ハッフルパフからマイナス五十点!』
烈火の如く怒り狂うマダム・ピンスの顔が脳裏を過ぎる。
『呪文よ終われ』
優等生の澄んだソプラノが呪文を唱えた。本の群は一斉に動きを止め、自由落下を始める。
『元に戻れ』
すかさず次の呪文。本の群は床に落ちるより先に、滑らかな動きで書架に向かって飛んでゆくと、次々に棚へと収まった。
「うへ……マジかよ……」
フォローする、と言う優等生を内心当てにしていなかったジュピターは、ぽかんと口を開けてその鮮やかな手際に舌を巻いた。
「呼び寄せの呪文で、あれだけの数……というより、大質量を一度に動かせるなんて。凄いわね」
「いやあんたの方がすげぇからな!?」
「大元の魔力量が大きい……出力の問題かしら……たぶん両方ね。何にしてもコントロールができないのは不味いわ……」
ジュピターの突っ込みを華麗にスルーして、優等生は独り言のようにぶつぶつと呟いている。実際、図書館の本はどれも大判の上に頑丈な装丁がなされており、一つ一つが大きく重い。それを数十冊、まとめて一度に動かすには、相当な力が必要だ。
「少し、練習してみましょうか」
「んえっ!?」
ジュピターの声が裏返った。見ず知らずの生徒に突然絡まれ、ヘタクソな魔法を披露させられた挙げ句に練習しろと言われれば、誰でも戸惑うに決まっている。
「本。取りたいんでしょう?」
「うぐ」
だが、相手は親切心――と、少しの好奇心――で言っているのだ。あまり無碍にもできない。
「……わかったよ。で、どうすりゃいいんだ?」
少なくとも、このお人好しのハッフルパフ生には。
「まず、目を閉じて。あなたの中にある魔法の力を感じ取れるかしら」
優等生の声音は真剣そのものだ。揶揄うつもりなど毛頭なく、どうやら本当に本気で教えてくれようとしているらしい。ジュピターは言われるがままに目を閉じた。
「感じ取れたなら、今度はその力を練っていきましょう。ゆっくり呼吸しながら、胸からお腹にかけて、時計回りに、ぐるぐる循環させるの」
深い呼吸を繰り返すうち、腹の底が熱を持ち始める。初めての感覚だ。こんなこと、どの授業でも、誰も教えてはくれなかった。
「……OK。次は?」
「杖を持った手を、前に真っ直ぐ伸ばして」
ジュピターが言われた通りに手を伸ばすと、優等生は自分の杖で彼女の手首に触れた。
「この辺りに、水道の蛇口があるイメージで。今はまだ、閉じたままよ」
「OK」
何かが変わるかもしれない。ジュピターの中で、仄かな期待が生まれる。
「次は、お腹でぐるぐる回っている魔法の力のうち、少しだけ――そうね、靴紐一本分だけ、伸ばした腕の方に流して。蛇口はまだ開けないで」
「OK。できてる……と、思う」
「目を開けて、目当ての本をしっかり見て、杖の先でよく狙って」
ジュピターはゆっくり目を開くと、目指す本の、深紅の背表紙に視線を止め、杖の先を向けた。
「呪文と同時に蛇口を開けて、すぐに締める」
自分でも驚くほど冷静に、精神集中できている。
――これなら。
『来い』
呪文とともに、力を解き放つ。
言われた通り、蛇口はすぐ閉じた。
深紅の背表紙『だけ』が青白い光を纏い、勢いよく風を切ってこちらに飛んで来た。その様は、さながらクィディッチの暴れ鉄球のようだ。
ばしぃぃんっ!
「痛っってぇぇぇ!」
顔面めがけて高速で飛来した本を反射的に素手で受け止めたジュピターは、思わず掌を抱え込むようにしてうずくまった。
そして、
「……すごい! すごいよ!」
ひとしきり悶絶した後で勢いよく起きあがると、謎の優等生の右手を両手で握り、ぶんぶんと上下に振りながら興奮気味にまくし立て始める。
「今まで何回試しても、誰に教えて貰っても駄目だったのに。今まで聞いたどの授業よりも分かり易かった!」
「そう……それなら、よかったわ」
優等生は戸惑い気味にそう答え、小さく笑った。
「でも」
握った手はそのままに、ジュピターが問う。
「何であたしにそこまでしてくれるんだ? あたし等、どっかで会ったことあったっけ?」
「ないと思うわ。たぶん、今日が初めて。強いて言うなら……ただの親近感、ね」
「親近感?」
首を傾げるジュピター。いったい自分のどこに、目の前の優等生が親近感を覚える要素があるというのか。
「……貴女が。『梯子も脚立もない』って、言ったから」
優等生は少し逡巡し、押さえた声でそう言うと、握られた手をそっと引っ込めた。
「んん? 梯子? 脚立?」
ジュピターは額に手を当て、ますます訳がわからないという風に眉を顰める。
「一般的に――」
また言い淀む優等生。
「魔法界で育った人は、脚立を使わないわ」
「っ、」
ジュピターの表情が強張る。
(結局、この話題かよ)
――生まれ育ちの話は、彼女の逆鱗だ。
ホグワーツ魔法学校の入学許可証が送られて来て、初めて自分が魔法使いだと知らされた時は、心が躍った。自分の中に眠る、正真正銘自分自身の力で勝ち取った、別世界への切符。魔法界でなら、親の顔も名前も知らない孤児院生まれでも、誰にも馬鹿にされたり蔑まれたりすることなく、自分で道を切り拓ける。そう信じていた。
だが、現実はどうだ。やれ純血だの、半純血だの、穢れた血だの。忌々しくも馬鹿馬鹿しい、露骨な差別が横行しているではないか。こんなことなら、元の世界の方がまだましだったかもしれない。
(所詮、こいつもか)
突如現れて魔法の稽古をつけてくれた優等生に好意を抱き初めたところだっただけに、裏切られたようで余計に腹立たしく思えた。
「非魔法界ではごくありふれた、身近な道具だけど。こっちの世界では修理の魔法や引き寄せの魔法があるから、全く必要とされていないのね。だから」
優等生は、それまで友好的だった相手が途端に心を閉ざしたのを感じ取ったのか、
「ちょっと懐かしい単語が聞こえて。勝手に親近感を感じて、勝手に肩入れしてみただけ」
ごめんなさい、と呟きながらほろ苦い微笑を浮かべた。
(……ん?)
懐かしい、と。
彼女は確かに、そう言った?
(親近感、って……!)
おそらく彼女も、非魔法界で育った人間なのだ。
例えば、遠い異国で独り、異邦人の群の中を彷徨っている時、不意に故郷の言葉が聞こえたならば。誰しも、思わずその声の主を求めて駆け出したくなるものではないか。
(そうだ……この子は、そんな奴じゃない。たぶん)
彼女には、生まれ育ちで相手を値踏みする意図など毛頭なかったのだ。ただ、この魔法界で異物として生きる寂しさを誰かと分かち合いたかったに違いない。
――そして、その「誰か」は自分であってほしい。
ジュピターははっきりと、そう思った。
「軽率だったわね。ごめんなさい、私は退散するわ」
優等生は目を伏せたまま、踵を返して立ち去ろうとする。
「っ、ちょ、待って!」
ジュピターは思わず、立ち止まるどころか振り返りもしない優等生の肩を掴んで引き留めた。
「っと、ごめん!」
優等生の表情に浮かぶ怯えの色に、慌てて手を引っ込める。
「……何?」
拒絶するような、冷たい声。
ここで怯むわけにはいかない。
「えっと、その……本当に、助かったよ。ありがとう」
ジュピターはそう言って、先刻までと同じ人懐こい笑顔を見せた。
「んで……また、会える……かな」
優等生は少し驚いた表情を見せ、
「ええ」
やはり先刻と同じ柔らかな笑みで即答する。
「名前。聞いて、いいかな……あたしはジュピター・フォレスト」
「マーキュリー・ジェイよ」
涼やかなソプラノの余韻を残して、優等生は図書室を後にした。
ジュピターはそれから、本を床に放置しているところををマダム・ピンスに見つかってこっ酷く叱られるまで、暫し夢見心地でその場に佇んでいた。
§1 Private Lesson――Fin.
|