† 侵蝕 †
三月 悠生
リリス・ザ・ダークネスの放った衝撃波によって吹き飛ばされるセーラー戦士達。一人その場に踏み止まったジュピターの視界に、マントを羽織った長身の女性の姿が映る。
「お前は!」
怒気を含んだジュピターの声が響く。
素早く敵に向き合うも、一瞬早く相手の一撃を食らわされ膝をつくジュピター。立ち上がろうとするも、何か得体の知れない力に抑え込まれている。抵抗しようとするジュピターの思いとは裏腹に、得体の知れない力に操られる様に、首を右に傾ける。
露になった左の首筋に近付く唇。
ひんやりとした感触の後に、鋭い痛みがジュピターを襲う。途端に視界が暗くなり、両手足の先が冷たくなる。全身から力が抜け、地面に吸い込まれそうになる。
数秒の後、首筋から唇が離れる。同時に得体の知れない力から解放されたジュピターが振り向くと、既に敵の姿はなかった。
「くそっ!」
ふらつく足で立ち上がると、敵の姿を追い求めて駆けだし闇へと消えてゆくジュピター。
衝撃波に吹き飛ばされ受けたダメージより回復したセーラー戦士達も、同じく消えた敵の姿を追う。ジュピターが吸血されるのを、ただ黙って見ているしかなかった自分達の不甲斐なさに腹を立てながら・・・。
特にマーキュリーの頭の中では、吸血されたシーンと青白い唇が何度もリピートされていた。
* * * *
「いよいよ、明日ね。ヨーロッパ行くの」
「そうだね。まさか、本当にいけるなんて・・・。みちるさんのお陰だね」
「夢であって欲しくないな。もっとも、追試が行われてたら分かんなかったけどね・・・」
「まこちゃんは、満点とるつもりじゃなかったの?」
「も、勿論そうだけど。ア、アハハ・・・」
まことの部屋に、乾いた笑い声が響く。
ヨーロッパへ旅立つ前日、亜美はまことの部屋に泊まりに来ていた。
集合時間が早いということもあって、トランクを持参して亜美が訪れたのは夕方。いつもの週末のように一緒に食事をして、お風呂を済ませお揃いのパジャマで向かい合いながらのティータイム。穏やかで、楽しい時間。
「しかし、旅費の殆どを出してくれるなんて、流石みちるさん。太っ腹だよなー」
大袈裟に感心するまことの様子を見て、クスクス笑いながら紅茶を一口飲む亜美。一息つくと、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「ねえ、まこちゃん。本当に、飛行機・・・大丈夫?」
飛行機事故で両親を亡くしているまことは、飛行機を見ることは無論、音を聞くことさえ苦手としている。ましてや、乗るなんて・・・。
「ん、余り大丈夫じゃないけど・・・。皆も一緒だし、亜美ちゃんが居れば・・・。亜美ちゃん、ずっと傍に居てくれる?」
亜美の言葉に一瞬暗い顔を見せたまことだったが、言葉の最後の方は照れて俯いてしまった。そんな仕草を堪らなく可愛いと思いつつ、ティーカップに伸ばされたまことの右手を両手で包み込む亜美。ビクッとして上げられたまことの視界に、亜美の優しい笑顔が映る。
「約束するわ! ずっと、一緒に居るって。飛行機の中では手を繋いでましょうね・・・」
亜美の気持ちが嬉しくて、黙って頷くまこと。
「それでも、駄目だったら・・・」
「駄目だったら?」
「私に、任せてね!」
頼もしい亜美の最後の一言には、まことは笑うしかなかった。
「亜美ちゃん、布団敷く? それとも・・・」
「いつもの様に、まこちゃんと一緒で・・・」
「あ、ん。分かった」
いつもは聞かない事を、何故か聞いてしまうまこと。殆ど週末毎に泊まりに来ている亜美とは、まことのベットで一緒に休む事は恒例となっていたのに・・・。
亜美がまことの部屋に泊まりに来るのは、久しぶりだった。まことが吸血される以前に泊まりに来て以来、実に二週間以上経っていた。
理由は、まことが無意識のうちに避けていたから。
* * * *
まことは、ここ数日悪夢に悩まされていた。
ヴァンピールに吸血されてから毎夜見る、黒い霧の夢。
夢の中で、まことは光溢れる世界に一人立っていた。すると、何処からともなく黒い霧のようなものが発生し、それが徐々に光を覆って行く。日一日と、侵蝕されてゆく光の世界。黒い霧の正体を見極めようとしたまことだったが、その瞳には何処までも続く深い闇が映るだけだった。
漠然とした思いが、まことの心に一つの言葉を紡ぎ出す。
『闇の世界? これが・・・』
急に恐怖に駆られたまことが踵を返し、闇から遠ざかろうと光の世界を疾走する。しかし、どんなに必死に逃れようとしても、闇は拡大し確実に近付いて来る。
『闇に囚われたら、どうなるのだろう?』
仲間達の前では平静を装っていたまことだったが、闇に囚われ大切な仲間達と戦うことになるかもしれない。亜美を傷つける様なことになったら・・・という思いに押し潰されそうになる。
闇の拡大と共に、まことの恐怖も日一日と拡大してゆく。
昨日の夢では、もう既にまことの逃げ場は無くなっていた。
『今日もまた夜が来る』
憂鬱な気分で旅行準備をしていたまことに、亜美から電話が入ったのは昼だった。電話の内容は明日の集合時間と場所の再確認だったが、亜美の声はまことの沈んだ気持ちを楽にしてくれる。連絡事項は済んだというのに、電話を切れずにいる二人。しばしの沈黙の後、亜美が問い掛けた。
「まこちゃん、今日・・・泊まりに行ってもいい?」
一瞬答えに詰まったまこと。不安がまことの脳裏をよぎるも、亜美の申し出を断る事は出来る訳が無い。
「・・・いいよ。久しぶりにご飯一緒に食べようね。何時頃来れる?」
亜美の嬉しそうな返事を聞きながら、まことは思っていた。
『亜美と一緒だったら、もしかしたら・・・』と。
まことは、夜が怖かった。自分が、自分じゃなくなりそうで。
* * * *
「よし! これで良いかな・・・」
「まこちゃん、そんなにセットしなくても」
「えーっ! だって、海外旅行だよ。遅刻したら大変だよ!」
「そうね、飛行機は待ってくれないわよね!」
大きく頷くまことの手には、三つ目の目覚まし時計が握られている。もう寝ようと、ベットに入った二人だったが、なかなか眠りに付けないでいた。まことの忘れ物(目覚ましのセット)のせいである。
普段なら、まことは目覚ましが鳴る前に起きてしまうタイプだが、やはり緊張しているのかも知れない。目覚まし三つの他に、テレビ・ラジオ等アラームを鳴らせる物全てをセットしていた。
ようやく満足してベットに戻るまことに、亜美が笑いながら言う。
「まこちゃんでさえこんなに心配なら、うさぎちゃんや美奈子ちゃんはもっと心配ね」
「美奈子ちゃんは、遊びに遅刻した事は無いから大丈夫だと思うけど・・・」
「心配なのは、うさぎちゃんね! でも、うさぎちゃんの事はレイちゃんに任せて大丈夫だと思うけど・・・」
「そうだね。いざとなったら、呪いの呪文も在るからね!」
自分の言った言葉に青くなるまこと。そんなまことに、亜美の笑いが止まらない。笑う亜美に少し拗ねた表情を見せたまことだったが、すぐに微笑んでしまう。亜美の笑顔が好きだから。
亜美が自分を見つめるまことの視線に気付き、その瞳を見つめ返す。暫く見つめ合っていた瞳が近付いてゆき、閉じられると同時に互いの唇が触れる。数秒間、触れるだけのキス。
「おやすみ」
「・・・おやすみなさい・・・」
離れると一言だけ言葉を交わし、ベットに横になる二人。顔を見合わせると、照れたように微笑んでまことは瞳を閉じた。亜美は瞳を閉じず、まことを見つめ続けている。暗がりの中でも、いつもより青白いまことの顔はよく見える気がした。特に、唇は色を失って見えた。
やがて、まことから安らかな寝息が聞こえてくる。まことが眠りに就いたことを確認して、亜美も瞳を閉じた。暗闇の中、人差し指で自分の唇を確認する亜美。
さっき触れたまことの唇は、氷の様に冷たかった。
* * * *
ジュピターの白い首筋に近付く青白い唇。
触れる瞬間唇が開かれ、血よりも赤い口腔と白い牙が見えた。
首筋に吸い込まれるように食込む二つの牙。瞬く間に顔色を失ってゆくジュピター。
ジュピターが吸血されている様子全てがスローモーションの様にマーキュリーの瞳に映り、一瞬の出来事が永劫に思えた。
ようやく離れた唇より一筋流れる血液。
それを惜しむ様に、唇を上から下へとゆっくりと動く舌。
同時に満足気な冷たい微笑を浮かべると、ヴァンピールは闇へと消えていった。
何度も、何度も、繰り返される悪夢。その度、自分が無力なのを思いしらされる。叫んでも、もがいても、終わる事が無い。
『止めて! お願い止めて! ジュピターに触らないで!』
やがて、立ち上がったジュピターがマーキュリーを見た。その瞳の色は、いつもの優しさが満ちた深緑ではなく、真紅に変わっている。
「マーキュリー・・・」
マーキュリーに向かって冷たく微笑んだと思うと、牙を剥くジュピター。
「いやぁぁぁーー!」
マーキュリーの血の叫びがこだました。
「おやすみ」
キスの後の特有の照れくささを感じながらも、亜美の柔らかく温かい唇から勇気を貰い、久し振りの安らかな眠りに就くまこと。
しかし・・・、悪夢は終わってはいなかった。
キッと闇を見据えるまこと。すると、黒い霧が一筋まことに向かって伸びてきた。左手に触れると絡みついてくる黒い霧。その様子を身動ぎもせず見つめているまことの前で、霧が何かの形を成してきた。
『・・・腕?』
その先を確かめようと、下に向けていた視線を上げるまこと。目の前には無限に続く闇しか見えない筈なのに・・・、まことは何かを感じとった。神経を研ぎ澄まし集中すると、目の前の闇の一部が徐々に人の形を成してきた。
それは・・・、いつも鏡越しに見ている顔。
一気に押し寄せた恐怖がまことの口から解放されそうになったその時、何かが聞こえた。
それは悪夢から呼び起こす、愛しい人の絶叫。
* * * *
「・・・亜美ちゃん! 亜美ちゃん!」
悪夢から解放され目を覚ましたまことの瞳に映ったのは、胸を押さえもがき苦しむ亜美の姿だった。慌てて飛び起きたまことは、亜美を抱き締めると必死に呼びかける。何度呼びかけても返事は無く、聞こえて来るのは苦しげな呻き声と掠れた声の悲鳴。
「・・・ぃ・・・ゃ・・・」
「亜美ちゃん!」
何とか亜美を悪夢から救い出そうと呼び掛けているまことだったが、心の隅に別の思いが浮かぶ。
『これは、悪夢の続き・・・それとも新しい悪夢?』それは、背筋が凍りそうな思いだった。しかし、まことの腕の中の亜美のあたたかな温もりは確かに現実のもの。さらに腕に力を入れ、亜美を強く抱き締める。
「・・・まこ・・・ちゃん・・・」
どれだけの時間呼び掛けていたのだろう。まことの耳元で囁くように発せられた声に、抱き締めていた腕を解き亜美の顔を覗き込む。しかし、ようやく開かれた亜美の瞳にはまことの姿は映ってはおらず、空を見つめていた。
「亜美ちゃん・・・」
目を覚ましたと思い安心したのも束の間、亜美の様子に不安が募るまこと。何も反応を示そうとしない亜美の姿が壊れた人形の様に思われ、不意に瞳より溢れ出た涙の一滴がまことの頬を伝い、亜美の唇に吸い込まれる様に落ちた。すると急速に光を取り戻す亜美の瞳に、心配そうなまことの姿が映し出される。
「・・・まこちゃん・・・」
何故まことが泣いているのか? 覚醒したばかりの頭脳では正確な状況判断は出来なかったが、ただ目の前にいつものまことが居るのが嬉しくて自分から抱きつく亜美。
「亜美ちゃん・・・ 良かった。気が付いたんだね! このまま目が覚めなかったらどうしようって・・・」
亜美の耳元で囁かれる様なまことの声は震えていた。その声に、まことの首に回している両腕に益々力を込め抱きつく亜美。まことを安心させる為、放さない様に・・・。
目を閉じたまま抱き締め合う二人だったが、何か違和感を感じる亜美。いつもなら温かいまことの体温が、異常に低い事に気が付いたのだ。
「まこちゃん、寒くない?」
「んっ? 大丈夫だけど・・・。亜美ちゃんが温かいから」
「そう・・・」
瞳を開いた亜美の視界に、まことの左の首筋が入った。そこには、二つ並んだ小さな傷跡が残されていた。抱き合ったまま傷痕を撫でる亜美の指に、まことの体がビクッと反応する。
慌てて体を離すと、自分の手で首筋を隠し苦笑いを浮かべるまこと。
「きっ、気になる? 何か貼っとけば良かったね・・・」
「大丈夫・・・、私が隠してあげる・・・」
亜美の唇が、まことの首筋に吸い付いた。呪いを吸い出すかの様に激しく吸い、また傷を癒すように舐めるという行為を繰り返す亜美に、まことの体が敏感に反応する。
「亜美ちゃん!」
耐えられなくなったまことが、亜美をベットに押し倒した。切なげな視線で見つめるまことに真剣な瞳で頷く亜美を合図にするかの様に、その行為は始まった。
それぞれの思いは胸に隠したまま、いつもより激しく互いを確かめ合う二人。
まるで、これが最後かの様に。
そうして二人は、深い眠りに落ちていった。
* * * *
完全に周りを闇で覆い尽くした世界で対峙する、二人のまこと。
「闇の世界へ・・・ようこそ」
聞き慣れた声を発するまことを象った闇が、歪んだ微笑みを見せる。
嫌悪を感じたまことが、掴まれている腕を振り払おうとしたが、闇はまことを捕らえて放そうとしない。逆に、触れている部分から闇がまことの体に入り込み、ゆっくりと侵蝕してゆく。侵蝕されてゆく部分が悲鳴を上げ、苦痛に歪むまことの顔。抵抗する手段が見つからない。
「「いい加減、諦めたらどうだ」」
聞き慣れた声に微かにダブって聞こえる声。忘れはしない、ヴァンピールの声。
『絶対に負けない! 否、負けられない!』
一層の抵抗を試みるまことに業を煮やしたのか、牙を剥き左の首筋に顔を近付ける闇。何故か暗闇の中でも、白い牙を覗かせる赤い口腔は良く見える。
首筋の痛みを覚悟したが痛みは一向に襲っては来ず、変わりに背部より暖かなエナジーを感じるまこと。それは、紛れも無く光のエナジー。
光のパワーは瞬く間にまことの体を駆け巡り、闇を体から追い出した。光によって輝きだしたまことは、闇が象っていた自分を一瞬の内に葬り去る。
消える瞬間、見慣れた筈の顔がヴァンピールの顔に変わったのは、見間違いだったろうか・・・。
光が闇の世界を急速に縮小してゆく光景を見ながら、まことは嬉しい気持ちで一杯だった。背中越しの為確認する事は出来ないが、まことの体を包む光のエナジーは間違え様も無い愛しい人のものだった。
「亜美ちゃん、ありがとう・・・」
* * * *
ピピッ、ピピッ・・・。
目覚まし時計のアラームが朝を告げる音を、覚醒したまことが素早く遮る。亜美が目を覚ました様子では無い事に、ホッと溜め息を吐くまこと。亜美はまことの背中にしっかりと抱き付いたまま、深い眠りに就いていた。背中越しに感じる亜美の体温が、くすぐったく感じるまこと。
悪夢から救われたとしても、ヴァンピールの呪いから解放された訳では無い。
それは十分過ぎる程分かっているまことだったが、愛しい人への感謝の気持ちで一杯だった。
しっかり抱き付いている両腕を優しく解くと、亜美へ向き直すまこと。
亜美の頬に残っている涙の跡を指で拭き取るとまことはそっとキスを贈る。
ありったけの感謝の気持ちと愛情を込めて。
キスの後、一人照れたまことは亜美の体を抱き締めた。
「後何分かな? 次のアラームが鳴るまで・・・」
小さな声で呟き苦笑いを浮かべながらも、素肌が触れる感触を心地好く感じ、幸せを実感していた。
−−−侵食・終
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