4人の86時間
<千秋楽>
亜美の朝は必ずしも早くない。
目を覚ますと、既に朝のまぶしい光が、部屋一杯に差し込んでいる。
ううん、と手を伸ばしてから、ふっ、と力を抜く。
血液が体の先に循環していくのを心臓と手の先と両方で感じる。
そして、その手は、昨晩自分を包んでくれた人を求めて隣へと伸びる。
が、そこにあるはずの温もりはなかった。
感じるのは冷たくなった布団の軽すぎる柔らかさ。
「まこちゃん?」
心の中で一声言うと、目に視力を与えて、隣を見る。
が、結果は、手の感触が寝起きの誤りではなかったことがわかっただけ。
体を起こして隣を見れば、そこは、既に空の寝床。
ひとしきり待つ。ふたしきり待つ。
しかし、寝床の主は帰ってこない。
自分自身も主を失った寝床と同様冷たくなっていくのを感じる。
「まこちゃん・・。どうして・・。」
まことが朝早いのは知っている。
また、早起きしてひとしきり運動に出かける時があるのも知っている。
でも、今朝ぐらいは・・。大切なことがあった日の翌朝ぐらいは私のためにいてくれても・・・・・。
「なにわがまま言ってるの。彼女には彼女のペースがあるのよ。」
今度は小声で言う、とその時、部屋のドアががらっと音を立てて開けられた。
「あっ。亜美ちゃん起きちゃってた。ご、ごめん。何とか起きる前に帰って来るつもりだったんだけど・・。」
息咳切って帰ってきた風情のまことが中に入るとドアを閉める。
「ううん。いいの。だって、まこちゃん、朝体動かすと調子いいんでしょ。せっかくこんな空気のいいところに来てるんだもん、外に出なかったらもったいない・・わ・・。」
と、そこまで、言ってまことの恰好を見れば、スリッパにパジャマ姿にセーター一枚羽織っただけだ。
冷静に部屋を見てみれば、昨日大活躍のまことのラケットも、カバーが掛かって壁に立てかけられている。
せっかくの旅行。
2人で同じ部屋に泊まるペンション。
その大事な朝に自分を置いてどこかへ、それも宿の中のどこかへまことをつれて行ってしまう用事。
そんなものってあるのだろうか。
まことを独占したいというわがままが亜美の理性を押し流す。
出すまいと思っていた険が顔に出て来るのを自分でも感じる。
「ねえ、まこちゃん・・。どこいってたの?」
うーんとしばし天を仰いだまことは、よしっとばかり意を決して亜美の方に顔を向ける。
「ねえ、その・・、亜美ちゃんは、美奈子ちゃんとレイちゃんの味方だよね。」
「ええ。それはもちろんそうだけど・・。」
質問の真意がわからない亜美は当たり前の返事をする。
「ほら、昨日、美奈子ちゃんが言ってたじゃない。今朝の朝食レイちゃんと2人で作るって。」
「その手伝いをしてたのね。」
こくりと頷くまことを見れば彼女が亜美を放っておいたことに罪の意識を感じているのは明らかだ。
その風情が、亜美の心に暖かさを吹き込む。
さらには、先ほどの自明の質問を敢えて聞くところを見れば、まことが美奈子とレイの・・・恐らくは美奈子主導の・・・良からぬ企てに参加していることは、亜美にも容易に想像がつく。
「ごめんね、まこちゃん。全然怒ってないから話してくれる?今朝のこと。」
にこりと笑って話しかける亜美に、ふーっと一息入れたまことが安心したように今朝の出来事を話し始めた。
「いやー。やったことと言えば別に大したことじゃないんだよ。朝、目が覚めたところで、扉をとんとん叩く音がするから、開けて出てみたら美奈子ちゃんが立っててさ。それで、どうしたのって聞いたら、朝食を作るのを手伝って欲しいって言われたんだ。」
「それで、まこちゃんが今日の朝食作ったの?」
昨日の美奈子の提案ではあったが彼女らの遂行能力にいささか不安を抱いていた亜美は、結論を先回りする。
「いや、そうじゃないんだ。あたしは指1本触れてない。それはほんとだ。ただ、初日の晩に出したオニオンコンソメスープ。あれを作るのをレイちゃんに指導してくれって言われて、出来るまでつきっきりで手取り足取り教えてたんだよ。いやもう、自分でやった方がずっと早かったんだけど、手だけは絶対出してくれるなって言われててさ。」
そこまで聞いて、亜美もははーんと頷く。
初日の晩のオニオンスープ。
いつものまことの味で、いつもどおり飲む人を幸せにしてくれる味だった。
さてはそれをレイに作らせてそれを飲む衛の喜ぶ姿を見ようというのに違いない。
そして、それは、美奈子が昨日レイに衛とのダンスをプレゼントできなかった代わりとしての企画であることは明らかだ。
打たれ強いと言うか、転んでもただでは起きないと言うか、さすがは美奈子ちゃんだ。
しかも、彼女にしてはあな珍しくもまともな内容の企てではないか・・。
「それで、美奈子ちゃんとレイちゃんは衛さんはどう反応するって思ってるのかしら。」
ひとつ階段を飛び越えた質問に、まことはちょっとびっくりしながらも、さすがは亜美と感心しなおして、10分前のやりとりを亜美に話した。
10分前の厨房。
仕込みを終えた3人は、椅子に腰掛けて一休みしている。
「ねえ、だけど衛さんこれ飲んで反応しないってこともあるよね。」
まことが首謀者に企ての見通しを尋ねる。
「そんなはずないわ、絶対過激に反応するはずよ。」
美奈子は自信満々で答える。
「確かに、まこちゃんのいうとおり作っただけあって自分でもおいしくできたと思うんだけど、スープぐらいでそんなに反応を示すかしら・・。」
レイは、自分の作品が予想外においしくできたことを喜ぶ反面、反応がなかったときにかえって味わうこととなる失望を案じてか少し不安げだ。
「レイちゃん、大丈夫。内部4戦士リーダーのあたしが言うんだから間違いない。」
これまで数限りない間違いを目の当たりにして来ている2人はふーっとため息をつく。
そして、まことはその自信の根拠を求める。
「どうして、美奈子ちゃんはそこまで絶対って思うんだい?」
「わからないかなー。いい?まず、衛さんは単身でアメリカに行っていたのよ。だから、こういう愛情の込められた手料理には飢えてるはずなのよ。」
愛情ってあんたねと、突っ込みを入れかかるレイを無視して美奈子は続ける。
「それに、絶対成功するって確信したのが、昨晩のまこちゃんのビーフシチューに対する反応よ。」
昨晩のビーフシチュー。
まことが作ったそれを、衛はうさぎの白い目にもかかわらず、おいしい、おいしい、と言ってたっぷり2杯もお替わりしていた。
「それは、まこちゃんのビーフシチューがそれだけおいしかったってことじゃないの?」
レイは万人の認める理由を口にする。
「ちっ、ちっ、ちっ。それが違うのよ、レイちゃん。」
美奈子は、右手で人差し指を1本立ててそれを胸の前で振る。
「昨日のシチューはまこちゃんにしてはいまいちだったのよ。具に味もしみてなくて。」
まことは驚いた。
さすがは美奈子と言わざるを得ない。
確かに昨晩のシチューは、自分としてはもう一つの出来だったのだ。
やはり、ああいう料理はもう少し時間をかけて作らないといいものは出来ないと反省しもしたのだ。
一晩寝かせた今日の昼にはもう少し味も丸くなっておいしくなってはいるはずなのだが・・・。
「にもかかわらず、あれだけおいしいおいしいって食べてたのは、衛さんのここに来るまでの行程に鍵があるのよ。」
「ここに来るまでの行程・・。」
美奈子の言をおうむと化して繰り返すまことに美奈子はじれったそうに先を続ける。
「いい?衛さんは、サンクスギビングデイの少し前から休みを取って、日本に来てた。そして、ここには直接来た訳じゃなくて、何日か東京に滞在してから来たのよ。」
「何日か東京に滞在・・・」
「わかった!!」
眉間に皺を寄せてのおうむ返しから抜け出せないまことの横で、レイがひらめいたとばかりに右手の拳で左手の手のひらを打って言葉を続ける。
「そして、東京では誰かさんと一緒だった!」
「そう!そして、その誰かさんは衛さんに喜んでもらおうとした!!」
「わかった!!」
喜色満面で謎の問答をしている2人に遅れて、まことも手を叩く。
「衛さんは、ここに来る前に東京で、その誰かさんの手料理をずっと食べさせられていたんだ!!」
「そーなのよ!!」
勝てる。
あの料理が相手なら、缶詰でも、レトルトでも勝てる。粉とお湯でも勝てる。
いや、あれに負けるようでは、もはや食べ物とは呼べないかもしれない。
不遜な考えが3人の頭の中をぐるぐると回る。
「わっはっはっはっはっはっ!!」
早くも成功を確信した3人の勝ち誇った笑い声が扉の閉められた厨房の中でこだました。
「それでさ、美奈子ちゃんが言うには、状況は勝ったも同然だから、あとは、衛さんがスープに口をつけるときにみんなでじろじろ見たりしないで、ごく自然に感想が口に出るような雰囲気にしておくことだけ注意しようっていうことになったんだ。」
「それで、まこちゃん、私に言うのを少しためらってたのね?」
こくりと頷くまことに、亜美はにっこり笑ってまことの手を握った。
「大丈夫よ、私も楽しみだわ。なんかどきどきして来ちゃった。」
「おはよー。」
「おはよーって、うさぎ、あんた一番最後よ。」
レイが一言突っ込んだ後、給仕のために立ち上がった朝の食堂。
昨晩から4人減って6人となった食卓には、衛の正面のうさぎの席を除いて、5人が既に席についていた。
食卓には、大皿に、レタス、トマトといった生野菜と既に皮の剥かれたゆで卵、切られたハム、それにロールパンが盛られている。
また、各人の前には、取り皿と、牛乳の入ったグラスが一つづつ置かれている。
「えーっと、食パンもあるんだけど、トーストがいい人はいますか?」
レイの問いかけに、既にロールパンを一つ手にしている衛が応ずる。
「あっと、じゃあ一枚もらえるかな。」
はいはーい、と応じるレイを見ながら、うさぎの右隣に座っている美奈子がほくそ笑む。
衛はお腹がすいている。
これはいける。
「なんか、わりと簡素な朝食ねー。」
席に着いたうさぎがグラスの牛乳を半分ほど一気飲みしたところで食卓を見回しながらつぶやく。
「ごめんね、うさぎ。今日は最終日だから、あんまり材料がなくって。衛さんにもせっかく来てもらったのに悪いとは思ってるのよ。」
トースターから戻ってきたレイがうさぎに向かって申し訳なさそうに答える。
美奈子はまたまたほくそ笑む。
衛がスープに口をつけるまではみんなして殊勝な態度で行こうと言っていた打ち合わせどおりだ。
材料があればもっとできるのかとレイに突っ込みを入れたい自分も、ここは理性で押さえ込む。
「あっ、ううん。ごめんねレイちゃん。そんなつもりで言ったんじゃないの。それにまもちゃんは東京で毎日たっくさんおいしいものを食べてきたからかえってこれぐらいの方がいいのよ。」
うさぎのそのせりふには、美奈子とレイに加えて、もはやまことと亜美まで、ほほの筋肉が緩まるのを押さえることが出来ない。
「あっ、そうそう、スープを忘れてたわ。すぐ、準備するね。」
うっかりしてたとばかりにぽんと手を叩いて、レイが厨房に向かう。
それじゃあ、私も配るの手伝うわ、といって笑いをかみ殺しながら美奈子も席を立つ。
「おまたせー。」
オニオンスープの入れられたカップが受け皿に乗せられて各人の前に配膳される。
衛には美奈子からトーストも渡される。
亜美は自分の前に配膳されたカップにスプーンを入れて一口口に含む。
2日前の晩と同じ、飲む人を幸せにする香ばしい味。
ただ、カップの中をよく見ると切られたオニオンが不揃いなのがまことの作ではないことを示している。
「おいしそうだね、これ。」
一言漏らして、衛もスプーンをカップに入れてオニオンごとスープをすくうと、それを口元に近づける。
美奈子はロールパンを口に運んだところで口を開けながら、まことは大皿のトマトを取り箸で掴んだところで上目使いで、亜美は2口目のスプーンを口に近づけたところで横目使いで、まことにスープを給仕中のレイは机に置こうとしたカップを手に取ったままそれぞれ衛の口元に視線を釘付けにして心ならずも固まってしまう。
「すすっ。」
更に一口「すすっ」
かしゃりとスプーンを置いた衛は無意識に口を開く。
「いやー、このスープいい味だね。これを毎日飲める人は幸せ者だなーっ。」
待っていたどんぴしゃりのその言葉は固まっていた4人を瞬時に解凍し、座っている3人は机の下で、レイには立ったままで、それぞれ拳を握って小さくガッツポーズを取った。
「ねえねえ、まもちゃん。このスープを毎日飲めないまもちゃんはかわいそうってことなの?東京であたしには、そんなこと言ってくれなかったじゃない。」
唯一人凍結・解凍・ガッツポーズと縁のなかった人物から、抗議の声が上げられる。
これも予想していた展開だ。
待ってましたとばかりに美奈子が隣のうさぎの抗議をかき消すように身を乗り出して、うさぎの反応に泡を食っている衛に声をかける。
「ねえねえ、衛さん、レイちゃんの作ったこのスープ、おいしいわよね。」
自分をしっかと見つめるうさぎと美奈子、それにまことの隣で少し恥ずかしそうに自分を見ながらたたずんでいるレイを交互に見比べてから、衛はこほんと一つ軽く空咳をして、スプーンを手に取るともう一口スープを口にする。そして、今度は慎重に言葉を選んで答える。
「いや、このスープはおいしいよ。味といい、タマネギの歯触りといい、ほんとにおいしい。」
その言葉に美奈子はやったとばかりに気色満面の笑顔を浮かべ、うさぎは半べそになった。
「ねえ、衛さん、考え直すんだったら早いほうがいいと思うんだけど、どうかしら。あちらの美人さんの方がいいんじゃないかしら?」
美奈子のさらなる言葉を聞いて、レイは真っ赤になって下を向き、うさぎはほとんど涙がこぼれそうになる。
しかし、最初は美奈子状態だった亜美とまことは、また、当のレイと美奈子まで、うさぎの見せる悲惨な表情を前に、次第に同情心が顔に出てきてしまうのを押さえることが出来ない。
うさぎだってうさぎなりに一生懸命頑張って料理をつくって衛に食べさせていたはずなのだ。
せっかく久しぶりに会えた恋人の目の前でこんな恥をかかせていいものなのだろうか。
やっぱり、うさぎのこともみんな大好きなのだ。
「なあ、うさ子。」
スプーンをことりと机の上に置いた衛は、問いかけた美奈子にではなくうさぎに話しかけた。
「レイの作ったスープ。一口飲んでみたらどうだ?」
「やだ・・・。」
うさぎはふるふると力無く首を振る。
「まあ、そう言わずに飲んでみろって。」
今度は優しい声色で促されると、かちゃりとスプーンを手にとって、1さじすくって口に運ぶ。
喉がごくりとそれを飲み干したのを見て、衛が声をかける。
「どうだ。おいしいか?」
「・・・・。うん・・。おいしい・・。」
うさぎの声は消え入りそうだ。
「うさ子の回りにはこんなにおいしいスープを作れる仲間がいるんだ。素晴らしいことじゃないか。」
衛の優しい声にうさぎは涙をためた目を上げて衛の方に向ける。
「うさ子が俺のために一生懸命料理を作ってくれたことは知ってるよ。心がこもっていてとっても嬉しかった。だから、もっと喜んでもらおうと思ったら、仲間に教えてもらって、たくさん練習して、もっとおいしい料理を作れるようになればいいじゃないか。作るその時頑張るっていうことも大事だけど、その前にたくさん練習するっていうのが本当の一生懸命なんじゃないか。」
うさぎは相変わらず目に涙を溜めながらも、衛の言うことにこくこくと頷く。
「俺だって、うさ子に喜んでもらえるようにアメリカで頑張ってくるからさ。うさ子も頑張れよ。料理も勉強も。これだけ多芸多才な仲間達がすぐ近くにいるんだ。うさ子なら絶対何だって出来るさ。」
さすが衛の見事な収束であった。
「あーあ。何か成功なのか失敗なのかわかんなかったわ。」
亜美とまことの部屋にレイと美奈子も集まって朝食における企ての総括をしている。
「美奈子ちゃん、それは成功だったと思うよ。だって、衛さんはおいしいおいしいって言って、レイちゃんの作ったスープをおかわりしてたんだから。」
まことが当然だと言わんばかりに自分の意見を述べる。
「いや、そりゃそうなんだけどね。その、何というか、もっと盛り上がると思ったのよ。」
美奈子の言に、まこともうーむと考える。
確かに、自分も衛にスープがおいしいと言わせた後、衛とレイとの間が盛り上がったらおもしろいという気持ちがなかったとは言えない。もちろん、美奈子が嫌がるのなら、そんなことは考えないが、何しろ今回の企ては美奈子自身が旗を振っていたのだ。
「美奈子ちゃん、もういいのよ。私は自分なりに結構どきどき出来たし。べそかいてるうさぎの前でそんな盛り上がったってしょうがないでしょ。」
もう一人の主役のレイは、あれで十分だというさばさばした顔で言う。
「まっ、レイちゃんがそう言うんなら何にも言うことはないんだけどね・・。でも、あそこまで見せつけられたらちょっとしゃくよね。」
「衛さん、うさぎちゃんにちょっと優しすぎるのよ。」
意外なところから発せられた意外なリアクションに、3人の視線は一斉に亜美に向けられる。
「だって、まこちゃんがうさぎちゃんに料理を教えてるの見たことがあるけど、うさぎちゃん全然集中してなかったもの。できあがったものを食べることには夢中なのに。勉強だってそうだわ。みんなで教えてあげてるのに居眠りしたり、課題を渡しても全然やってなかったり。だから、衛さんももっと、ばしっと言ってくれてもいいと思うのよね。」
「まあまあ、亜美ちゃん、衛さんもあれだけ言ったんだからうさぎちゃんもしっかりやるよ。それに、あれ以上厳しく言ったら大泣きしちゃって、あとが大変だって。」
あれが「ばしっ」じゃないと言う亜美の「ばしっ」だけは受けたくないと思うまことは、温情あふれる言葉を口にする。
「ねえ、そしたら、こうしない?」
人差し指を1本立てて右手を胸の前で振りながらにっこり笑って美奈子は新たな提案をする。
他の3人は、その不吉な笑顔に不安げな視線を送り、次の言葉を待つ。
「うさぎだけいじめると、泣かれて大変だから、衛さんも一緒に、テニスの試合で思いっきりいじめちゃうっていうのはどお?」
「さんせーい!!」
またもや珍しくまともな提案に、他の3人から挙手付きで賛成の明るい声が上がったところで、反省会はお開きになった。
「レイちゃん手加減してよー。」
「美奈子ちゃんそんなサーブ取れないよー。」
「まこちゃん、手がいたいよー」
「亜美ちゃんのいじわるー」
テニスについては、衛はアメリカで多少やっていたようではあったし、うさぎもそれなりにできない訳ではなかったが、修羅場をかいくぐってきた4戦士たちの敵ではなかった。
結局、衛とうさぎのペアが、美奈子とレイ、亜美とまことのペアと4ゲーム先取の練習試合をともに0-4の串団子で負けたところで、この組み合わせではつり合わないという結論に至り、その後は、ばらばらの組み合わせで、昼食を挟んで、夕方まで球音と歓声を秋のコートに響かせた。
「いやーお疲れ様ー。」
「ほんと。みんな明日遅刻しないようにねー。」
「亜美ちゃん勉強会よろしくねー。」
「まこちゃんもお菓子よろしくねー。」
「衛さん、また戻ってきて下さいねー。」
「ああ、またよろしくな。」
夕食は下田で済ませ、東京駅から地下鉄に乗り、それぞれの家の近くの駅で、6人は解散となった。
もう時刻は夜の9時になろうとしていた。
亜美と一緒に亜美の家への道を歩くまことの目に、遠く亜美のマンションが見えてくる。
いろいろあった4日間であったが、終わってしまえば一夜の夢のようだ。
その夢もあと2,3分で終わりになり、明日からはまたいつもの日常が待っている。
「楽しかったけど・・。終わっちゃったね。」
無意識にぽつりとつぶやいた言葉は、亜美に向けた言葉なのか、単なる独り言なのか、自分でもよくわからない。
「そうね。でも、明日からもよろしくね。」
「ははっ。いや、もちろんだよ。こっちこそよろしくね。」
まことの言葉を拾ってくれたその返事と、満月の明るい光の下その光に負けないくらい晴れやかな笑顔をみて、まことも幸せな気持ちになる。
「明日の勉強会はあたしんちだから、たくさんお菓子を作っておくからね。」
「ええ、私もうさぎちゃんにどう教えたらいいかよく考えていくわ。最近休みがちでみんなに迷惑かけてたから。」
「あのさ、それだったら、美奈子ちゃんにもどう教えたらいいか考えて置いた方がいいよ。あ、でも、亜美ちゃんの勉強の方は大丈夫なの?」
まことのなにげなく発した気遣いの言葉に亜美が少しうつむいて歩みを緩める。
「うん・・。あの・・ほんとのこと言うとね。私、最近、お勉強会休んでたのは、忙しかったからじゃないの・・。ほんとは、みんなに会うのが・・・・。」
そこまで言ったところで、まことの右手が亜美の口にそっと当てられて、二人は立ち止まった。
「忙しかったんだよ。」
まことは亜美に正対すると穏やかな笑みを浮かべて言う。
「亜美ちゃんは忙しかったんだよ。それがすべてだって。」
まこちゃんは、きっとほんとの理由を知っている。
だけど「忙しかった」の一言にすべてを含ませて、それを言わせないのが彼女の優しさだ。
そうした心遣いができる彼女に頭が下がる。
「そうね、忙しかったからよね・・。有り難う、まこちゃん。」
明るい月の光の下、どちらからともなくお互いの腕がお互いの体に回され、二人の体は一つになった。
レイと一緒に火川神社への道を歩く美奈子は、ちょうどすぐ隣に小さな児童遊園があるのが目に入る。
「ねえ、疲れちゃった。ちょっとそこで休んでかない?」
そう言って美奈子は立ち止まる。
「あのね、もう9時よ。あと少しなんだから・・・」
そこまで言って、歩みを止めて振り返って美奈子のたたずむ姿を見たレイの脳裏に、にわかにこの4日間のシーンのいくつかが去来する。
「まあ、いいわ・・。少しだけよ。」
2人並んで腰をおろしたベンチから回りを見れば、小さな砂場と、子供用の小さな鉄棒があるだけだ。
見上げれば、満月が見事なほどに明るく輝いている。
「いい月ね」月を見上げて美奈子が言う。
「ほんと。」レイも同じく見上げたまま言う。
「でも、明日から欠け始めるのよね。」
「そう。明るい満月もいずれは真っ暗な新月になるわ。」
「4日間、とっても楽しかったけど、今が満月なのかしらね。」
レイが隣を見れば、月の光を浴びながら見上げたままそう言う美奈子の端麗な顔は少し寂しそうだ。
楽しい夢のような宴が終われば、また現実がやってくる。
「そうね、でも欠ける月もあれば、欠けない月もあるわ。」
「欠けない月?」
不思議な言葉に美奈子が怪訝な顔で隣を見ると、また月を見上げているレイは、穏やかな、将来に対して安心したような笑みを浮かべている。
「そう。欠けない月。」
レイはそのままの表情で美奈子の方を向いて、同じ言葉を繰り返す。
「ふーん。難しいことを言うのね・・・。あっ、でも、レイちゃんのその心境、昔の人がどういう風に表現したか知ってるわ。」
ぽんと手を叩いて、美奈子は自慢げな笑顔を見せる。
その表情にレイは悪い予感を感じながらも、とりあえず聞いてみることにする。
「その昔の人はどう表現したのよ。」
「えっへん。私だってちゃんと歴史の勉強してるってことわかってもらわないとね。いい? それはー、「もちつきの、欠けたることもなしと思えば」っていうのよ。」
思わず、ぶふっと吹き出してしまったレイだが、気を取り直してもう一度空を見上げれば、確かに明るい望月の中ではうさぎが楽しそうに餅つきをしている。
明るい美奈子。
馬鹿なことばっかり言っている美奈子。
だけど、大事な時に、必要な時に、回りが困っている時に、彼女自身すら困っている時にその明るさを失わない強さを持っていることを今の自分は知っている。
だから、この程度のことは許して上げることにする。
気が付けば、美奈子の右腕がレイの肩にそっと回されている。
「ふーん。結構がんばってるのね、美奈子ちゃんも。」
「そっりゃそうよ。うさぎと一緒にされたらたまんないもんね。これは、へいあんっていう時代にふじわらっていう人が詠んだ歌の一節なのよ。そうそう、歴史ってやってみると結構おもしろいからレイちゃんも頑張って勉強してみるといいわよ。」
得意げに話す最後の言葉に心の中で何かがぶちっと切れるのを感じたレイは、一つの疑問を美奈子にぶつけることにした。
「ねえ、美奈子ちゃん。」
「なあに、レイちゃん。」
返事をする美奈子の目は心なしか少し潤んでいる。肩に回された右手に少しだけ力が入れられ2人の体が密着する。
「わたしね、今回の合宿で一つだけわからなかったことがあるの。」
「あら、それは何かしら。」
艶めかしい笑みを浮かべる美奈子に、レイも笑みを返して先を続ける。
「その、衛さんは、うさぎの勉強指南役を優勝ペアにお願いしようと思って、今回の賞品を企画したわけでしょ?」
「そうよ。びっくりしたけど。」
「だけど、8人がどういう組み合わせで組んで、どのペアが優勝するかは、衛さんは事前にはわからなかったはずよね。」
「確かに、それはそのはずよ。」
「だから、もし、美奈子ちゃんがまこちゃんと組んで優勝してたら、衛さんどうするつもりだったのかな、ってことがわからないのよ。」
「ふーん。そうねー。」
質問の意味を美奈子が理解して、レイの肩に優しく回されていた右腕が力を込めたヘッドロックに変わったのは3分後、9時も回った頃のことであった。
<終>
|